中山道 - 2         関ヶ原〜草津





日時:2010年7月18日(日)〜19日(月;海の日)

往きの列車時刻:
7:15大阪−7:44京都−7:51山科−8:39米原乗換、
8:46(豊橋行き特快)−9:06関ヶ原下車。

コース:関ヶ原→鳥居本(ホテル泊)→草津

参加者:奥田、中村(幹事)、西野、真賀利、松田、吉田(案内人)、計6名。







1日目 (関ヶ原〜鳥居本)   34km(4時間50分)

   

   



左写真、関ヶ原駅をスタート。  9:25



右写真、旧中山道に面した旅館「枡屋」。
表の建物には家族が住んでおられ、奥に昔の建物(江戸後期)が残されていて、客室になっているとのこと。






左写真、西首塚
関ヶ原合戦の戦死者数千の首級を葬ったと塚。


右写真、江戸時代から、十一面千手観世音および馬頭観世音のお堂が建てられ、供養されている。

(ココでGPSの switch on )




不破関資料館
不破関資料館(右写真の建物)で暫し見学。壬申の乱の翌年に天武天皇(大海人皇子)が不破関を設置した。

左図、不破関跡見学コース図(不破関資料館パンフレット)。
@不破関資料館、A藤古川と大木戸坂、B伝関守跡、
C不破関の南限土塁跡、D伊勢街道跡、
E不破関の東城門跡と東山道(中山道)、F不破関の北限土塁跡、
G不破関の東北角、H不破関の東限土塁跡。(昭和49〜52年の発掘調査)



右写真、左図B伝関守跡。律令制の不破関が停廃された後、鎌倉時代に東山道を通る人荷から関銭を徴収する不破関が史料上に見られる。その関守の跡らしい。









左写真、藤古川上流側。水色の道路橋(21号線)とその向こうにJR東海道線の赤いトラス橋。



右写真、藤古川の下流側。名神高速道路が近い。


壬申の乱はこの藤古川を挟んで戦われ、大海人皇子(天武天皇)が東側、大友皇子(弘文天皇)が西側だった。





左写真、常磐御前の墓と伝えられる五輪塔。侍女の五輪塔も並んでいる。

芭蕉もココを訪ね、『義朝の心に似たり秋の風』と詠っている。


右写真、左の大きい方の石がその芭蕉句碑。
1862年に垂井町生まれの化月坊カゲツボウが建て、ついでに隣に自分の句碑も建てたそうな






左写真、JR東海道線の単線トンネル。



右写真、今須宿一里塚跡を見て、今須宿に入る。







左写真、今須宿問屋場トンヤバ(山崎家)。



右写真、西見附付近の常夜灯。
以前は問屋場の前にあった。







左写真、地図に名前が出ていない神社のお祭り日だった。休日でないと若い者が帰って来れないので言っていた。国道とJRを越えた山の中腹にお社がある。



右写真、美濃と近江の国境。
画面中央右の古い石柱には「近江美濃両国境寝物語 近江国長久寺村」。左の石柱には「舊蹟・寝物語・美濃国不破郡今須村」







左写真、滋賀県と岐阜県の県境は、今も小さな溝だ。



右写真、芭蕉句碑 『正月も美濃と近江や閏月』。
野ざらし紀行の旅で芭蕉がこの国境で詠んだらしい。(ただし、「野ざらし紀行」には載っていない。)







左写真、神社鳥居脇の「東山道」道標。(東山道・中山道分岐点の道標で、ココから西の東山道は廃道になり、踏切を渡って柏原宿に入る道が中山道として新設された。)



右写真、照手姫地蔵堂。








左右写真、伊吹艾モグサを扱っている伊吹堂亀屋左京


木曽路名所図会に、「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾の店多し」とある。もぐさは旅の必需品であり、また旅の土産としても重宝されたらしい。
この亀屋の松浦七兵衛が寛政の頃、行商で江戸へ下って、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓、亀屋佐京の切りもぐさ」というコマーシャルソングを歌わせた話は有名。








左写真、中山道の前身の東山道の小川(コカワ、粉川とも)の関跡。薄暗い林の中を行く旧道が残っているが、我々は左手の舗装道を走った。


やがて、61番目の宿場・醒ヶ井サメガイに入る。

右写真、加茂神社は名神高速にへばり付いて建っている。もちろん、名神の方が後から出来たのだが。







左写真、加茂神社の境内の居醒イザメの清水。ココから地蔵川(琵琶湖に流れる天野川に合流している)は始まる。銅像は日本武尊。

右写真、石造地蔵菩薩坐像。(真ん中にうっすらと写っている。)花崗岩を丸彫りした半跏像。鎌倉時代後半。総高270cmの丸彫り地蔵尊は全国的にも少ない。

このお地蔵様の隣の湧き水(居醒イザメの清水)で顔を洗って、昼食休憩。


居醒イザメの清水 : 景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせていた。
そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられた。尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せ、多くの人々の心配を除かれたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめた。
やっとのことで醒井の地にたどり着き、体や足を清水で冷やすと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子も爽やかになられました。
それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになった。


左写真、地蔵川の清流。

右写真、雨森芳州の歌碑。
水清き人の心を さめが井や底のさざれも玉とみるまで

雨森芳州 : 江戸時代の儒学者・教育者・外交家。
二十六才のとき木下順庵の推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮・中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折捗・応接に貢献する。
その善隣友好互恵対等の外交姿勢は、現在も高く評価されている。
八十才で一万首の歌を詠む決意をした芳州は、古今和歌集を千回も復読したという。この歌も、その中の一首である。(米原町)




左写真、問屋場跡の醒ヶ井資料館前。
梅花藻を見るために、箱眼鏡が置かれていた。


右写真、箱眼鏡で撮った梅花藻








左写真、二つ目の湧水、十王水
近くに十王堂があったことから十王水と呼ばれるようになった。



右写真、三つ目の湧水、西行水
西行がここで休憩したらしい。






米原ジャンクションの下をくぐって、
左写真、久礼の一里塚。


番場の宿に入り、蓮華寺に向かう。
右写真、蓮華寺の本堂。この本堂前で、六波羅探題・北条仲時以下432人が自刃した。
(鎌倉幕府崩壊の端緒)






左写真、本堂右の坂道左手に並んでいる北条仲時以下六波羅勢一行の墓(五輪塔)。



右写真、”番場”の地名が広く知られるようになった、長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公番場の忠太郎ゆかりの「忠太郎地蔵尊」。








左写真、本堂内陣。



右写真、菊のご紋のついた勅使門。








左写真、鎌刃城カマハジョウ跡の山を見て、一路、摺針峠へ向かう。


右写真、摺針スリバリ峠の展望台からの眺め。建物は再建された望湖堂(今は個人住宅で非公開)。
屋根の横に、高さ170mのエレベーター研究塔(彦根市と米原市にまたがるフジテックの本社製作所内)も写っている。







絵
左図は、安藤広重の「木曾海道六十九次之内・鳥居本」。
摺針峠から眼下に琵琶湖を望んでいる。(右上の写真と同じ構図)

旅人は茶屋本陣・「望湖堂」で「するはり餅」を食べながら、琵琶湖の景色を楽しんだのだろう。東国からの旅人はここで初めて琵琶湖に出会う。
琉球使節をはじめ諸大名もこの景色を眺め休息したそうだ。











鳥居本の宿に入る。

左写真、街道が枡型になっている所に赤玉神教丸の有川家。(多賀大社の紳教により調合された胃腸薬。)


右写真、「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」。軒下に往時の大きな合羽カッパの木看板が吊るされている。







左写真、近江鉄道・鳥居本駅



右写真、無人駅のホーム上の待合室も古いらしい。








左写真、彦根道との分岐点。文政12年の道標には、「右、彦根道」「左、中山道、京いせ道」。
彦根道の先に東海道新幹線の高架が見える。



右写真、小野小町塚。







左写真、床山八幡宮。ココの注連縄はいつも低い位置に掛けるそうな。(月に2回張り替えるとか。)



右写真、画面中央のが境内にある芭蕉句碑・昼寝塚








左写真、ひるね塚 :
俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている。つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。


右写真、昼寝塚の裏側に「ひるかおに ひるねせうもの とこのやま」と彫ってあるようだ。




この日は、彦根インター近くのガーデンホテル大和に15時前にチエックインし、ゆっくりした。




2日目 (鳥居本〜草津)   60km(7時間半)

   

   


7:30、ホテルをスタート。

まずは、芹川沿いの多賀道をさかのぼって、お多賀はん、多賀大社にお参りした。
左写真、太閤橋(石のそり橋)



右写真、神主さん巫女さんが本殿前に集まって、朝のミーティング中だった。8:00





  多賀大社境内図 日向神社 子安神社 年神神社 熊野神社/天神神社/熊野新宮 三宮神社 金咲稲荷神社 神明両宮 蛭子神社 天満神社 秋葉神社 愛宕神社 竈神社

多賀大社には、伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が祀られている。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」は、伊勢神宮の祭神・天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の子である神話体系から。
「お多賀杓子(おたがじゃくし)」と称し、お守りとして杓子シャモジを授ける慣わしがあり、「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来らしい。


左写真、鳥居前には、名物・糸切餅の老舗多賀やなどが軒を連ねる。


鳥居前から高宮宿へ多賀道を北西に走る。
右写真、高宮の中央にある多賀大社一の鳥居
脇の常夜灯も大きく、灯明の小窓まで13段の石段が付いている。







左写真、高宮宿(一の鳥居から北方向を写す)



右写真、芭蕉の紙子塚の説明板。








左写真、犬上川の無賃橋を渡る。
(芹川は銭取橋)


右写真、下流側。
釣り人は多分、鮎釣り。







左写真、上流側。



右写真、四阿で小休止。








左写真、豊郷小学校



右写真、階段手摺の真鍮製のウサギとカメ。ココからスタートして上まで競争していた。








左写真、くれない公園。
豊郷は丸紅、伊藤忠商事の創始者伊藤忠兵衛の出身地であるので、昭和10年に丸紅の支配人たちがこの公園を造ったとのこと。


右写真、伊藤忠兵衛の生家で、今は「伊藤忠兵衛記念館」。








左写真、「江州音頭発祥地」の碑。
天正14年、観音堂を再建して遷仏式を催し、余興に、老若男女を集め手踊りをさせた。
羯諦羯諦波羅羯諦、波羅僧羯諦などの経文を節面白く歌い、手振り、足振り揃えて、輪を作って踊らせた。
あまりの楽しさに見に来ていた群衆も参加して踊ったらしい。


宇曽川を渡ると、左手の民家の庭の奥に、
右写真、平将門の首塚の円墳。





愛知川の御幸橋を渡る。


左写真、上流側。


右写真、下流側。






左写真、奥石オイソ神社の鳥居。
この神社の森は「老蘇の森」と称せられ、歌枕になっていたらしい。



右写真、参道を進む。
(中央は拝殿。)





【老蘇森オイソノモリ】 史跡、国指定文化財
この森は、平安時代には早くも人々に知られており、しばしば和歌などに詠みこまれている。
往時は現在の数倍の大森林であったといわれ、街道(中山道)の名所として旅行者の訪れるところとなっていた。
伝説によれば、昔この地方は地裂け水湧いてとても人の住めるところでなかったが、石部大連が樹の苗を植え、神々に祈願したところまもなく大森林となり、この大連は生きながらえて齢ヨワイ百数十歳を重ねたため「老蘇森」と称せられたと伝えられている。
今なおスギ・ヒノキ・マツ等から成る樹林はうっそうとして茂り、森の内には延喜式内社奥石オイソ神社が祀られている。

この森の四阿で昼食休憩。11:15


左写真、拝殿。奥に本殿。



右写真、森の緑地のブランコ&滑り台。
非常にスッキリした設計である。







左写真、轟橋。
(袂に轟地蔵跡)



右写真、武佐宿本陣跡。







左写真、伊庭貞剛翁 生誕の地(いばecoひろば)。



右写真、この公園で暫し休憩。








左写真、武佐宿の西の日野川(横関川)。
画面中央に老若二人の釣師がいて、お爺ちゃんが孫に鮎釣りを教えているトコロ。(中村氏の解説)
この地点に広重の舟渡の絵の看板があった。


右写真、鏡神社。
鏡山の麓の「立バ、鏡の宿」に牛若丸が泊まって、源氏の烏帽子を注文したとのこと。






左写真、鏡神社本殿。


右写真、義経元服池。
(神社のすぐ西手)
謡曲「烏帽子折」 : 鞍馬山を脱出して奥州に向かった牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物。







左写真、平家終焉の地。



右写真、蛙不鳴池は菱に覆われていた。







【平家終焉の地】  (野洲町観光協会)
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲町である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと2年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに敗れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったと言われ、「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「」とも呼ばれている。


新家棟川を越えて、

左写真、篠原神社の門前を通る。



右写真、甲山古墳。
6世紀前半の円墳。





左写真、石室入口。



右写真、家型石棺。







新幹線をくぐって、JR野洲駅に向かう。コンビニで全員、シャーベットと凍らせたペットボトルをを求め、暫し休憩。


中山道に戻り、
左写真、朝鮮人街道(画面左手)と合流する。



右写真、野洲川を渡る。
三上山(近江富士、432m)が、JR東海道線、新幹線の向こうに見える。






左写真、東門院(比叡山東門院守山寺)。
守山宿はこの寺の門前町。
「京立ち守山泊まり」:京都を早朝に出発し、守山で最初の宿をとることが多かった。


右写真、本堂。







左写真、東門院五重塔(重要文化財)。
左右の宝塔、宝篋印塔と共に鎌倉時代。




右写真、十王寺(焔魔堂エンマドウ)。
右の石柱には「焔魔法王小野篁御作」と。





左写真、焔魔堂にも蓮が咲いていた。



右写真、大宝神社前を通過。








左写真、伊砂砂神社の拝殿。(奥に本殿)


右写真、重要文化財の本殿。
一間社流造、檜皮葺(室町時代)。



ココの涼しい鎮守の森で暫し休憩。




左写真、伊佐佐川 。
若鮎も泳いでいた。(中村氏確認)
伊砂砂神社の御手洗川ミタラシガワ。神社の社名は、本殿の御祭神五柱のかな書き神名の「い・さ」と、伊佐佐川に因んで伊砂砂神社とされたらしい。


右写真、草津宿・田中七左衛門本陣
本陣以外に材木商も営んでいたので、「木屋本陣」とも呼ばれる。



この2日間は、梅雨明け直後の酷暑の中であったが、15:00に無事、中山道(関ヶ原〜草津)自転車旅を終えた。
JR草津駅前で自転車をバラし、エレベータで上がった。
お世話になりました。


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