中山道 - 4 - 1       塩尻〜日本橋


旧中山道自転車旅の残っていた”塩尻〜日本橋”間280kmを一気に4泊5日で駆け抜けた。 

1日目 2011年10月5日(水) 塩尻〜下諏訪 下mapの赤線
2日目 2011年10月6日(木) 下諏訪〜岩村田 下mapの青線
3日目 2011年10月7日(金) 岩村田〜安中 下mapの茶線
4日目 2011年10月8日(土) 安中〜熊谷 下mapの紺線
5日目 2011年10月9日(日) 熊谷〜日本橋 下mapの赤線

下図の走行軌跡mapは吉田代表から提供されたもので、今回の旅程を示している。

参加者:奥田、奥野、中村、西野、真賀利、吉田 計6名。

初日は秋雨に歓迎されたが、2日目以降は秋晴れに恵まれた。


































1日目 : 塩尻〜下諏訪

1:2011年10月5日(水)

08:09京都→08:45名古屋
(のぞみ308号) \4930-
09:00名古屋→10:52塩尻
(ワイドビューしなの5号) \5040-


本日の走行軌跡は、上のmapの”塩尻から諏訪”の赤線であり、その速度高度グラフを右に示す。
この日の走行距離は、18.6km
(12:05〜15:50=3時間45分)
であった。

高低差300m超の塩尻峠越えが厳しかったナァ。










左写真、塩尻駅前で自転車を組み立て、準備完了。



右写真、食堂で腹ごしらえ。
雨がぽつぽつ降り始めたので、防水仕様を整える。








左写真、スタート前の全員集合記念写真。
   12:05


右写真、堀内家(国の重要文化財)。
立派な棟飾りは雀おどりといい、諏訪地方独特の切妻屋根に設ける棟飾りらしい。








左写真、阿礼神社。



右写真、塩尻陣屋跡の造り酒屋「笑亀酒造」。画面左端に大きな杉玉が写っている。
お隣は脇本陣跡(明治15年焼失)。








左写真、本陣跡。この川上本陣は建坪367坪もあり、中山道最大の本陣であったらしい。(明治15年焼失)。


右写真、柿沢の首塚・胴塚
1548年の武田晴信と小笠原長時の塩尻峠の戦いは、峠から西方の塩尻宿・桔梗ケ原一帯で繰り広げられた。
勝った武田軍がココで首実験を行い、遺体を放置したまま引き上げたので、村人が哀れに思い、埋葬したとのこと。






長野自動車道をくぐって柿沢を東進。





左写真、牛馬守護神。
牛や馬も塩尻峠を越えるのは大変だ。



右写真、我々もチョット休憩。




左写真、なにやら大きな石碑が3つ。



右写真、東山一里塚。
”平出”とともに塩尻市内に現存する一里塚。
江戸から57里。
元和2年(1616)塩尻峠が開通し中山道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更された。東山一里塚もその頃造られた。

峠は近い。



左写真、「夜通道ヨトウミチ」の案内標柱。
いつの頃か、片丘あたりの美しい娘が岡谷の男と親しくなり、男に会うために毎夜この道を通ったらしい。



右写真、茶屋本陣跡。
この写真の左手に立派な玄関の構えがあった。
中にはワット数の低い電球が付いていて、人が住んでおられる感じであった。こんな山の中にとビックリする。







左写真(Yoshida)、塩尻峠。 標高1050m。
14:10到着。

本格的に降り出した。


右写真、富士浅間神社。







左写真、真ん中の白いコンクリートは展望台。
天気がよければ、東に「八ヶ岳〜富士山・諏訪湖〜南アルプス」、西に「御嶽山〜乗鞍〜穂高〜槍〜常念岳」が見えるとのこと。


ココ塩尻峠は、分水嶺である。
右写真、画面左の水は太平洋へ、右の水は日本海に流れて行く。
我々は、画面右手から来て、左手の道を下るのだ。







峠を下って、石船観音を経て、
左写真、平坦で快適な中山道を進む。



右写真、「旧御小休本陣・今井家」。
皇女和宮や明治天皇が小休されたとのこと。







左写真、さすがなかなか堂々としている。



この後、岡谷から一気に中山道を東進する。
いよいよ、諏訪大社だ。

下諏訪に入ってから少し北上し、まず、砥川トガワ沿いに、
右写真、万治の石仏を訪ねた。





続いて、
左写真、諏訪大社・春宮


道を戻って、秋宮を訪ねる。
右写真、諏訪大社・秋宮の神楽殿。
棟全体がT字型の撞木シュモク造(三方切妻造)。奥に、幣拝殿。







左写真、大注連縄は、重さが1トンもあるそうな。


右写真、幣拝殿。
門と拝殿を兼ねた形式は、諏訪大社系神社に独特。
欅ケヤキの素木造。







諏訪大社下社秋宮案内図

右図、本日の宿、下諏訪の湖畔のホテル・山王閣に到着。   15:50
山王閣は、秋宮の境内にあり、自家源泉100%かけ流し。

【諏訪大社のこと】

 ホテルに泊まり、温泉に入って、何人かの地元の人に接する中で、どうも彼等の言う諏訪大社は下社の秋宮を指していると感じた。その旨を女将に質すと、
「そんなことを考えたことは無かったが、言われると、私らは秋宮。あっちの人はあっち(春宮)。」という答えが返ってきた。

 調べてみると、面白い歴史が分かった。
 縄文人は州羽の海(諏訪湖)の周辺、現在の標高900〜1000mの上位段丘に居住していた。
その後、農耕の民(弥生人)が出雲からやってきて、湖畔の下位段丘に居住した。
湖面の縮小に伴い出現した湿地帯が稲作に適していたのである。
そして、これらの縄文人と弥生人は棲み分けていたようだ。

 ところで、諏訪大社は、古事記にその由来がみえ、わが国最古の神社であることは間違いないと言われている。
諏訪大社は計四社からなり、上社(本宮と前宮)と下社(秋宮と春宮)は諏訪湖を南北に挟んで鎮座している。
 南の方の上社の前宮は、裏手の守谷山を御神体とし、縄文人の祭事場所のあった所にあり、縄文人の子孫・守谷家が管理している。
本宮の方は、弥生人の子孫・諏訪氏が諏訪大社の代表として押さえてきた。
 その後、弥生人集落の集まる諏訪湖北岸にも、上社と同じ建御名方神(たてみなかみのかみ)を祭った諏訪大社を建立した。
この時にも、縄文人の力が及んでいて上社同様、春宮と秋宮の二社を造り、縄文人と弥生人が信仰の上でも棲み分けてきたらしい。
 神事の上でも、上社は狩猟族を、下社は農耕族を端的に現す内容であり、違いは明白である。
また、御柱祭は昔からあるが、現在でも、上社の本宮、前宮の御柱祭は縄文の民(現在の茅野市、原村、富士見町)の氏子が参加し、
下社の秋宮、春宮には弥生の民(現在の下諏訪町、岡谷市、諏訪市)が参加して行われているそうな。



                                 2日目、下諏訪〜岩村田

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