チョットずつ山陽道-番外  広島〜岩国、下関、太宰府


クラブ・ザ・ファルトの山陽道旅「広島→下関」が2012年9月29日からの2泊3日で予定されていた。
しかし、大型台風が直撃する予想のため、前日朝に中止、延期の決定がなされた。

往復の切符を買っていて、そのキャンセルが面倒な私とT氏は、切符を使うべく出掛けることにした。
1日目の9月29日は大丈夫そうなので、広島〜岩国をザ・ファルトの下見も兼ねて走り、ほぼ確実に台風に見舞われる2日目以降は別行動とした。
概略行程を以下に記す。

1)1日目・9月29日(土)新幹線で広島に向かう。(さくら545:新大阪07:15→広島08:47)
途中、弁当を仕入れたショップで「台風は四国沖の方に逸れたので、ココら辺は大丈夫のようだ」と聞く。
幸い、雨に遭わず、岩国までのルートを二人で走る。
錦帯橋で別れ、私は新岩国駅近くの、T氏は岩国駅近くのホテルに宿をとった。

2)2日目・9月30日(日)、
前日、もし、天気であれば山陽道を走ろうと二人で決めていたが、朝、起きると雨。T氏と連絡をとり、当初の予定通り、別行動とする。
私は、新岩国から新下関まで新幹線に乗車。暫く走ると、台風の影響圏を抜け、雨は止んでいた。(T氏は小雨の中、山陽道へ入ったと、後から聞く。)
この日は、下関駅前のホテルに荷物を預け、下関を観光ポタリング。
夜は、居酒屋でコース料理を頼み、旨い酒を存分に味わった。

3)3日目・10月1日(月)は下関駅から在来線で九州に渡り、小倉で新幹線に乗り継ぎ、博多から鹿児島本線で水城駅まで向かう。
水城駅前の不動産屋で荷物を預かってもらい、太宰府までを往復。駅前の唯一の食堂で中華丼の昼食。
帰路も鹿児島本線で博多まで輪行し、コインロッカーに荷物を預けて、博多の町をポタリング。夕刻、新幹線で帰阪。


【1日目】 広島→岩国 自転車旅

 【GPS走行軌跡】 by Tanaka    赤線が本日の軌跡で、カメラマークの位置で写真を撮った。小瀬峠でデジカメを落とし壊わしたため、以下は写真無し。残念。







    広島市内 明神の浜・市杵島神社


    

   宮内村と大野村の境界。  最初の峠。 11:55。 腹が減っている。

   ”高畑東貝塚跡”が道を百メートル下った所にあるとの標示。

  大野原、塩屋の落ち着いた集落を走る。いろんな店を目にはするが、飯だけはない。コノ辺りの人は飯を食わないのか?

    かわさき商店で漸く、コンビニ弁当に有り付く。13時過ぎ。


   

   立派な蕎麦屋。向こうは海と島。  旧山陽道は画面左手の暗闇道に入るらしい。パス。

    宮坂温泉3丁目の峠。


   峠からは海の眺めがよい。後の山は切り立っている。

  T氏曰く、玖波で山陽道は山へ上る。ホントかなと疑いながらも従う。ココでもシンドい目に会った。

  

  上っていくと、山陽自動車道の手前に、介護老人保健施設の立派な建物。

      右写真、玖波の落ち着いた集落を暫し眺める。tanaka氏は”海に沿って立っている電信柱がよい”と言う。
            確かに絵になっている。山陽本線のかも知れない。

 旧山陽道のルートである「苦の坂」はこの日の旅程を考えて、パス。
 JR山陽本線に沿うように南に迂回し、”大竹”に向かう。大竹駅の西、大竹中学校の東を走って、小瀬川に出る。

  

 このポイントのすぐ手前側に”疫ヤク神社”がある。
   左写真、画面左手の落ち着いた集落の道を走ってきた。中央の道標には、「縣道大竹駅」。
   画面正面の道の方には「本通リヲ経テ大竹駅」と彫られていた。

      右写真、上記の標柱、上流方向には「木野村本郷道」とある。
       立派な道標だ。昔は旅人も多く、栄えた土地なのだろう。
       画面左側の低地は”疫神社”。疫病の神なので、低地にあるのだろうか?

  

    左写真、”疫神社ヤクジンジャ”にはお多福さんが描かれていた。
     「大竹では七福神にお多福を加え、末広がりの八福神として福徳を授かる琴ができます。」との説明があった。
    なお、神社の御由緒には、大治社オオシシャと疫神社の二つが書かれていて、「疫神社については、江戸時代1685年頃より
    地域の悪疫退散を目的とした神事が境内で行われていて、疫神社として社を建て祇園社をこれに合祀した。」とあった。

      右写真、本殿。

   

    左写真、小瀬川を渡る。この川が広島県と山口県の県境である。
      橋を渡れば、山口県の県道1号線。

      中写真、小瀬川の上流側。

         右写真、下流側。細い白いロープ?が多数張られていた。

 

  旧山陽道跡の標柱。

  

    左写真、最後の大峠「小瀬峠」の来た方。

      右写真、コレから行く方。結構な勾配だ。

 

  上写真(by tanaka)の説明板には、「旧山陽道と関戸本陣跡」について書かれている。
  左の石碑表面には「吉田松陰先生・東遊記念碑」(歌碑)と彫られている。江戸遊学の際、ココを通過したのだ。
  実は、小瀬川の渡し跡には、松陰が萩から江戸に送致される途上で詠んだ歌の碑があったらしい。
  画面右の山裾は客神社マロウド神社。厳島より勧請した、この地区の産土神とのこと。
 
 

 本日のゴール・錦帯橋に到着。世界に誇る木造アーチの素晴らしい橋だ。
 記念写真(by tanaka)には、無事、走り抜いた2台のBD-1が並んでいる。
 錦帯橋は、中央部に3径間(支間長35m)の木造アーチ、両端部に反りの大きな木桁橋を配されている。
 なお、錦帯橋は江戸初期に架けられてから、昭和25年に洪水によって中央の橋脚が崩壊、流失するまでの267年間、洪水による被害を受けることはなかった
 (木橋であるため、平均すると、20数年毎に架け替え工事がなされてきたとのこと。)
 下図は不鮮明であるが、「日本百名橋」(松村博著)から複写転載させていただいた”錦帯橋アーチ部の構造図”である。

 


 

  この写真(by tanaka)は、上流側から写した錦帯橋。台風の影響で雲が多いが、清々しい山と穏やかな川の流れ。二人旅の締めくくりにふさわしい。



【2日目】 下関ポタリング

 新岩国から新下関まで新幹線。在来線に乗り継いで下関駅へ。下関駅西口のホテル・ウイングに宿をとり、荷物を預ける。
 まずは下関駅周辺をうろついて、昼食の後、長府・功山寺に向かった。
 なお、以下の写真は昔の携帯で撮ったので非常に不鮮明でスミマセン。

 【GPS走行軌跡】  青線は往路、赤線は長府・功山寺からの復路。



 9時半に、ホテルをスタート。
 白石正一郎旧宅跡(奇兵隊結成の地)を見た後、北上。

   

   左写真、高杉晋作終焉の地。肺結核で病死。28才。

      右写真、厳島神社。 画面中央の鐘楼には小倉城の大太鼓(直径:1.1m、長さ:1.7m、重さ:390kg、ケヤキの大木を刳り抜いたモノ)がぶら下がっている。
       コレは元治元年(1864)に小倉藩で造られ、小倉城の櫓に吊るされていた。その音は、遠く大里まで届いたと言う。
       慶応2年(1866)の小倉口の戦いで、幕府軍に勝利した奇兵隊が、戦利品として下関に持ち帰った。総指揮官・高杉晋作が戦勝を祈願し厳島神社に奉納した。
       奇兵隊が小倉城に入城した日を記念して、毎年8月の最初の日曜日には、この大太鼓を打ち鳴らす「太鼓祭」が行われるらしい。

  

   左写真、桜山神社(招魂社)。高杉晋作らの発議によって創建された日本で初めての招魂場。吉田松陰を中心に維新に散った志士400柱が祀られている。
      手前右の一段高いのが吉田松陰。   (上のGPS軌跡の茶色線右のflag)

       右写真、了円寺。 元治元年(1864)、長府・功山寺で決起した高杉晋作たちが、萩藩新地会所襲撃後にこの寺に立て籠もった。本堂の柱には刀傷が残っている。
              (上のGPS軌跡の茶色線左のflag)

   その後、食堂を見付けるべく、また道に迷ってウロウロした。
   ようやく、見付けたお好み焼き屋に不本意ながら入る。お薦めの「麺入りお好み焼き・広島バージョン」を注文。無茶苦茶特大であった。おかみさんが広島の出とのこと。
   腹がふくれたので、長府を目指して海岸線を北上。

    

    左写真、海沿いのデッキを快適に走る。前方に関門橋。

       中写真、右写真、赤間神宮。

    

   左写真、安徳天皇陵。

      中写真、平家一門を祀る塚。

         右写真、『耳なし芳一』の芳一堂。   (以上、赤間神宮境内。)

   

   左写真、「春帆楼」。伊藤博文の命名により創業を開始した旅館兼料亭。1888年(明治21年)には伊藤により解禁をとかれた河豚料理公許第1号店であるらしい。
        1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)の締結会場。
        敷地内に日清講和記念館(登録有形文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像、伊東巳代治書の講和記念碑等があり、講和条約時、李鴻章が宿泊した引接寺へは、敷地内より李鴻章道が続く。

      中写真、下関 本陣 伊藤邸跡
        
 伊藤家は、下関を代表する旧家で、江戸時代には下関の東の本陣を務めた。
         シーボルトや吉田松陰らとの親交や、坂本龍馬が邸内の一室を「自然堂」と称し、妻・おりょうを呼び寄せて逗留したとのこと。

         右写真、引接寺。
            1598年に小早川隆景の遺言で隆景の菩提寺として再興された。
            江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所となった。1769年に長府藩第9代藩主毛利匡満によって再建された三門は下関市指定文化財となっている。
            下関条約の清側全権として来日した李鴻章が日本滞在中に宿泊した寺で、当寺と講和会議が行われた春帆楼を結ぶ道は、「李鴻章道」と呼ばれている。

     

   左写真、亀山八幡宮の大鳥居の右側に建てられている「床屋発祥の地碑」。櫛と剃刀の形。毎年11月には、毛髪供養祭が執り行われているらしい。
      なんでも、蒙古襲来の頃、新羅人の髪結職からその技術を学び、下関に我が国初の結髪所が開かれた。
      その結髪所の奥には、亀山天皇と北面の武士・藤原家祖先を祀る立派な床の間(とこの祭壇)があり、いつとはなしに「床の間のある店」と呼ばれ、
      転じて「床場(場は人の集まる場所)」、さらに「床屋」という屋号で呼ばれるようになり、下関から全国へ「床屋」が広まったとのこと。

      中写真、下関ふく連盟が、亀山八幡宮境内に再建した 「日本一のふくの像」 。


    

   左写真、旧下関英国領事館

      中写真、旧秋田商会ビル。大正4年(1915)に竣工した和洋折衷の極めてユニークな建築物。
          日本の近代建築史を代表する建築物で、鉄骨鉄筋コンクリート造で、屋上には日本庭園と日本家屋を備えているらしい。

         右写真、下関南部町郵便局。現役の郵便局。


   

   左写真、関門大橋。

      中写真、幕末、攘夷派「長州藩」の青銅製の「長州砲」。

   国道9号線から別れて、「旧山陽道」に入り、一路、長府・功山寺へ向かう。

    

   左写真、道端の黄菊。カメラが悪くて、残念。

      中写真、右写真、功山寺山門。
          鎌倉時代における唐様(からよう)建築の典型的な建造物とのこと。
          功山寺は、毛利元就に追われた大内義長が自刃したり(大内家滅亡)、高杉晋作が倒幕運動のきっかけとなる旗揚げをした(「回天義挙」)トコロ。

   

   左写真、功山寺の山門をくぐった右手に見事な萩が咲き満ちていた。

      中写真、高杉晋作像。(回天義挙の功績を称え、昭和47年(1972年)長府博物館友の会によって建立された。)
          画面右手は、経堂。心柱の周りに経典が積まれ、何冊も開かれた状態で、感激。 『 秋高し長府経蔵心柱 』

    

   左写真、功山寺の墓所。その中に、

      中写真、画面左に龍馬の盟友・長府藩士「三吉ミヨシ慎蔵」墓。従六位。

         右写真、その案内説明板。

    毛利家墓所(長府毛利累代墓)

   左写真、「毛利家墓所」への石段。

      中写真、墓所の門は堅く閉まっていた。

         右写真、
           ここには、毛利秀元(元就の孫で、秀吉の朝鮮出兵の折り高く評価され、関が原の戦後、毛利氏の削封に際して長府藩を創設)のほか、
           5代 元矩、9代 匡満、10代 匡芳、11代 元義、12代 元運、14代 元敏、15代 元雄、16代 元匡と、その正室や側室などが葬られているとのこと。

   

      帰路、関門大橋を見ながら、ゆっくりと走った。


  下関駅の近くで、百均の”ダイソー”を発見。
  ¥100で、福岡の分県地図を手に入れる。(コレで、明日の計画が立つ。)

  夜は下関駅の周辺を少し歩く。
  満月が台風一過の空に煌々と輝いていた。駅前は再開発が進み、きれいな都市美を呈していた。
  旅気分を味わった。


【3日目】 大宰府および博多

 【GPS走行軌跡】 



 1) 大宰府そして大宰府へ

 ホテルのロビーにパソコンがあったので、早朝、太宰府までのルートを検討する。
 下関駅からJRで九州に渡り、鹿児島本線・水城駅で下車。
 邪魔な荷物を駅では預からない。食堂も散髪屋もまだオープンしていない。
 唯一シャッターの上がっていた不動産屋のガラス戸を駄目元で開けると、地元の実直そうなオヤジさんがバッグを預かってくれた。感謝。
 身軽になって、大宰府へ。


  

   左写真、太宰府市関屋の交差点
    前方の石鳥居は、文久二(1863)年に、当時の福岡藩主だった黒田斉溥ナリヒロが寄進し、「さいふ詣り(太宰府天満宮参詣)一の鳥居」とも呼ばれる。
    手前右には、常夜灯が写っている。

      右写真は向かえ側の歩道から写したモノで、右から常夜燈・潮斎台・道標2基。
       道標の1基には梅鉢紋を描き、「天満宮東従是二十五丁享和二年(1802年)」と彫られている。
       もう1基には、「是ヨリひがしさいふ参詣道」、裏に「元禄四年(1691年)辛未天寄進 福岡呉服町 帯当金宇兵衛」と彫られている。


        

   左写真、右手前方の大宰府政庁跡(都府楼跡)に向かう道は気持ちのよい散策道で、地元の方が何人も散歩されていた。
      (上のGPS軌跡図の赤線が途中で少し北に入っているトコロ。)

      右写真、大宰府政庁の正殿跡の碑。       ココから画像が一層小さくなる。(携帯のメモリー容量の関係か?)


大宰府政庁には、奈良時代から平安時代にかけて壮麗な建築が建ち並んでいたが、天慶3年(940)に藤原純友の乱で焼失した。
左は、大宰府政庁南門想定復元図







大宰府と太宰府
 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。
 大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。
 平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いるが、都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。


        

  大宰府政庁跡に寄った後、太宰府天満宮にお参りした。
  写真があまりにも小さく不鮮明なので、説明は省略する。


 お昼に水城駅まで戻った。途中、ランチにありつけそうな店を探すが、1軒も見当たらなかった。
 駅前の食堂で特大の旨い中華丼を食った。客の大方は工事関係者だった。

 昼飯の後、水城駅から博多に向かう。


 2) 博多ポタリング


ココでも荷物を預けるべく、コインロッカーを探すが、あっちもこっちも空きはない。何ヵ所目かでやっと空きが見つかった。
観光案内所で地図をもらって、出発。


        

   左写真、大博通りを振り返り、博多駅を写す。

      以下、萬行寺。   櫛田神社、櫛田神社、櫛田神社、櫛田神社。「博多町家」ふるさと館。


       

   左写真、中洲新橋と川向こう南東方向。

      中写真、多分、歩道橋、中洲。

         右写真、多分、福博であい橋。


   

  福岡国際センター前を通り、高速の高架をくぐって、フェリーターミナルの海へ。

   左写真、向こうにマリンメッセ福岡。
      中写真、怪しげそうな小船。
         右写真、沖合から白い大きな船。





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