チョットずつ山陽道-3 広島〜下関
@ 日時:平成25年5月11(土)〜13日(月)
A 参加者:田中、西野、真賀里、吉田 (4名)
B 行程案 (from 吉田代表)
1日目・広島〜岩国 48km
(さくら545:新大阪07:15~広島08:47)
行程 : 広島駅・平和公園・(ほぼ国道2号線沿!)・宮島・装束町から国道Aをそれる ステーションホテル扇屋
2日目・岩国〜防府 76km
行程 : 錦川右岸・御庄・県道@・柱野・岩徳線沿・県道N・周防高森で左岸に県道144をそれる(ショートカット)差川で右に入る・高水・勝間古市で国道A・峠上市でAを左にそれる・徳山・周防国衙・周防国分寺跡 防府市サイクリングターミナル
3日目・防府〜下関 85km
行程 : 防府・佐野・防府西高校の東・長沢池・四辻・県道335・今坂からA・車地でAをそれる・逢坂から県道225・厚狭駅・長友東で225を右へそれる・県道232・吉田から県道33・小月京泊・長府駅・県道246・下関
【1日目】 55km
本1日目については、番外編の【1日目】もご参照下さい。(旧道をできるだけ忠実に辿っています。)
左写真、広島駅前。スタート直前。 9:00
画面中央は中山氏とその愛娘さん。本日、安芸の宮島まで同行し案内をして下さる。
中写真、原爆ドーム。
右写真、地御前神社。
宮島の対岸にあり、古くは厳島神社の外宮と称された大社。
本来、厳島は島全体が聖地と見なされ人が住むことは禁じられていたことから、
ココ、対岸に遥拝のために建てられ、そこから発展したとのこと。
左写真、立派な神殿。新旧の絵馬も格式がある。 11:00
中写真、宮島行きの観光船の乗り場。
右写真、乗り場も朱に塗られている。
左写真、厳島。画面右手に朱の大鳥居が見えるはず。
中写真、宮島に来れば、「うえの」の「あなごめし」を食うべしと、中山氏父娘に薦められ案内される。
やはり、特別、旨かった。あれだけの穴子飯は何処へ行っても食べられないと断言できる。
右写真、デザートは「やまだ屋・早瀬庵」で出来たてのもみじ饅頭。今日は食い道楽サイクリングである。コレが
the FALT か?
ここで、中山氏親子に感謝し、再会を約して別れる。(JR大野浦駅近く) 13:00
左写真、国道2号線から宮島を眺め納める。 13:20
中写真、厳島姫命がこの地に立ち寄った際に装束を改めた「衣掛松」。 14:00
石碑には「千早ぶる神も心をよせむらむ幾世かわらぬ衣掛の松」(藤原有隣)と書かれているらしい。
(JR和木駅近くの旧道)
右写真、錦帯橋に到着。 14:45
【2日目】 77km
左写真、欽明路峠を越えて、欽明寺。 7:45
中写真、玖波宿はずれの酒屋。(川の手前)
右写真、高森本陣跡。
左写真、中山峠への道を少し上ったトコロに四体の石仏。
なんでもコレは、宗泉寺の淡海和尚が島田川沿いに差川から弘末地区までの新道(淡海道)を開拓した記念に寄進された三観音様らしい。
今は廃寺になった宗泉寺参道の入口に立っているとのこと。
中写真、中山峠の郡境碑。「従是西熊毛郡(周南市)」、「従是東玖珂郡(岩国市)」。 8:50
右写真、峠の東側を写す。この坂を上がってきた。
左写真、JR高水駅。光市役所行きのバスが止まっている。 9:05
中写真、「おいでませ 鶴の里」と書いてある。
右写真、周南市指定文化財・呼坂本陣跡。
左写真、呼坂宿の旧街道筋。
中写真、「吉田松陰・寺嶋忠三郎 訣別の地」碑。
右写真、花岡勘場・お茶屋跡で昼飯。 10:40
左写真、影向石エイコウイワ。石の上に神馬の蹄跡が残っているそうな。
豊前の国より宇佐八幡宮・大神が神馬に跨り、コノ地の磯浜に降臨されたとのこと。
中写真、山崎八幡宮。
和銅2年、豊前国・宇佐神宮の分霊を神室山カムロヤマに祀った後、コノ地に遷したことに始まるとのこと。
右写真、山崎八幡宮からの眺め。
左写真、福川本陣跡。
中写真、亀ものんきに甲羅干し。 13:00
右写真、素晴らしい眺めに暫し、休憩。
左写真、赤い帽子に白い涎掛けの美しいお顔のお地蔵さま。
中写真、その向こうに昔の酒工場。
右写真、富海本陣の門の跡。
左写真、富海の海辺で暫しい休憩。潮干狩りの親子、結構、収穫がありそうだった。
中写真、「史蹟周防国国衙跡」。広大な地が残されていた。 14:30
右写真、多多良の大仏さん。
左写真、旧毛利家本邸。
中写真、毛利氏庭園。国指定名勝。
右写真、手入れの行き届いた広い広い庭園である。
左写真、周防国分寺・仁王門と大楠の木。 15:40
中写真、仁王門アップ。
右写真、仁王門の内側。
左写真、本堂。
右写真、国分寺の境内。 1.仁王門、2.本堂、3.持仏堂(客殿)、4.聖天堂、5.事務所、6.駐車場
from 防府市公式ホームページ
【3日目】 88km
左写真、周防・長門国境碑。 9:00
江戸時代の国境碑で「東 周防國 吉敷郡」「西 長門國 厚狭郡」とある。
中写真、休憩時に見た野アザミ。 11:40
「薊」というと春の季語であるが、夏に花を開くと「夏薊」と呼び、夏の季語になる。写真のは春の季語か?
右写真、吉田清水山・東行庵の高杉晋作の墓。 12:30
高杉晋作(号東行トウギョウ)は天保10年(1839)二百石の長州藩士の長男として萩に生まれた。18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村塾に入門したのを転機に希代の革命戦略家として頭角を現す。文久3年(1863)長州藩が外国艦隊と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織自ら初代総督となる。以後各地に討幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなったが慶応3年(1867)4月13日(命日は14日)下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8ヶ月の生涯を閉じた。
なお、吉田清水山の麓に、山縣有朋の草庵・無隣庵があり、慶応3年(1867)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。現在の庵は明治17年伊藤博文・山縣有朋・井上馨など全国諸名士の寄付により建立された。
左写真、東行庵の燈籠。
中写真、東行庵前の藤棚の下で少し休憩。
門前のおみやげ屋でソフトクリームを2つ。¥250x2=¥500−
右写真、東行庵の際に吉田旧街道の(新しい)石碑が建っていた。ココは宿場であった。
以下の”下関ポタリング”については、番外編の【2日目】もご参照下さい。
左写真、功山寺への広い参道。
中写真、山門。
右写真、高杉晋作挙兵像 。昭和47年(1972) 14:15
左写真、経蔵 (輪蔵)。寛政11年(1799)
中写真、経蔵前の藤。
右写真、功山寺の墓地に、龍馬の盟友・長府藩士「三吉ミヨシ慎蔵」墓がある。
左写真、関門大橋をバックに記念写真。 (関門橋の東側)
中写真、ウッドデッキで我が愛車を写す。 (関門橋の西側) 昨秋はカメラを壊して写すことができなかった。
右写真、亀山八幡宮の鳥居左手に『山陽道』と彫られた石碑が立っている。
無事、山陽道を走り終えた。 15:10
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