チョットずつ山陽道-2 清音〜広島
@ 日時:平成24年5月12(土)〜14日(月)
A 参加者:奥田、田中、中村、西野、真賀里、吉田 (6名)
B コース:
1日目
京都06:30→新大阪07:00(新快速) 、 新大阪07:15→岡山08:07(さくら545号)・岡山08:19→清音08:44着
清音〜福山 福山から鞆の浦へ寄り道 (63km)
宿泊: 鞆シーサイドホテル
2日目
鞆の浦〜尾道(ランチ)〜竹原 (70km)
宿泊: 大広苑
3日目
竹原〜広島 (58km)
3日間の合計は、192q
【1日目】
【GPS走行軌跡】 清音〜福山 福山から鞆の浦へ寄り道 (63km、走行速度17km/h)
左写真、清音駅。6名勢揃い。
清音に向かう車中でNとMは話に夢中になり、駅に着いたことに気付かない。窓の外からの仲間の声で間一髪、車掌に待ってもらって無事、降りる。
Niは自転車の転倒防止の括り紐を外すのが精一杯で、網棚に荷物を忘れる。そのため、写真では一人だけヘルメットを被っていない。
Niは備中高梁駅まで荷物を受け取りに行くこととし、先発本隊4名が出発。初参加のTが清音駅で待っていてくれた。
中写真、後続隊2名がようやく出発する時には、清音駅はガランとしていた。 11:25
右写真、河辺橋の歩道橋の信号待ちは長かった。
左写真、一里塚跡。「江戸より180里」
中写真、川辺本陣跡。
右写真、吉備真備公園の「吉備真備公」。
左写真、吉備公累代墓の石碑と天保4年の常夜灯。
中写真、 小田川の対岸にある琴弾岩。吉備真備がこの岩の上で琴を弾いたらしい。
右写真、「左、大坂道。右、玉しま道」の道標。
左写真、 中写真、右写真、 矢掛宿本陣の「石井家」。国指定重要文化財。
当時大庄屋で酒造業を営む石井家が本陣職に当たっていた。屋敷は建築の粋をこらしており、当時の繁栄がうかがえる。
天璋院篤姫が薩摩から13代将軍家定に嫁ぐ道中、ココ矢掛本陣に泊ったそうな。
左写真、井原鉄道に沿って街道を進み、いずえ駅の先で、「大曲」。傍に薬師堂も建っている。
中写真、法泉院。高屋宿の古い家並街並を快適に進む。
右写真、「旧山陽道一里塚跡」(上御領一里塚)と菅茶山カンチャザンが詠んだ「高屋途中」という題の漢詩の2つの石碑が並んでいる。
左写真、上御領一里塚の北側の四ツ堂。山陽道の旅人の休憩所で、ココのお地蔵さんにお参りする村人の憩いの場、社交の場でもあったらしい。
中写真、備後国分寺跡。立派な松並木は福山市指定史跡。
右写真、画面右手が通ってきた山陽道。消防署前でホースを干したりしていた。
左写真、 廉塾ならびに菅茶山カンチャザン旧宅(神辺宿)。
中写真、頼山陽18歳(寛政9年1797)、江戸にいく途中”黄葉夕陽村舎コウヨウセキソンシャ”に立ち寄った時に描いた「黄葉夕陽村舎の図」。
若き日の頼山陽はココの塾頭を務めたこともある。
(茶山の私塾であった”黄葉夕陽村舎”が福山藩の郷学として認可され、”廉塾”と改められた。)
右写真、JR神部カンナベ駅。井原鉄道の神部駅は画面の右手方向。 15:40
この先で、先発本隊のNaが体調を崩し、離脱。
後続隊は水呑大橋右岸で本隊に合流。 芦田川右岸を走り、一路、鞆の浦を目指す。
鞆に入って、Naが義兄の車で迎えに来てくれ、給水休憩。体調は大丈夫の様子。
鞆の浦シーサイドホテルに宿泊。
【2日目】
【GPS走行軌跡】 鞆の浦〜尾道(ランチ)〜竹原 (70km、走行速度17km/h)
上写真、鞆の浦の夜明け。仙酔島の北側から日が昇る。 5:36
時計回りに散策した。
左写真、対潮楼。
中写真、渡船乗り場。黒いのは平成いろは丸。
右写真、早朝の漁港は静かだ。
左写真、道の向こう(南)に常夜灯が見える。
中写真、常夜灯。向こうは”鞆の港”。右は、いろは丸展示館。
右写真、旧「保命酒屋」の建物。「太田家住宅」と「鞆七卿落遺跡」の大きな表札が並んで掛かっている。
保命酒は、餅米を主原料とし焼酎を用いて製造した漢方薬酒。
左写真、「本家・保命酒」の看板が左手に掛かっている。
中写真、明円寺。
右写真、石段を上って、医王寺。
左写真、大伴旅人のむろの木歌碑。「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首 万葉集巻三ー四四八番歌。
中写真、鐘楼から鞆の港を写す。
右写真、港と町並み。
左写真、ココからの「日東第一景勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」を楽しみにしていたが、対潮楼は、まだ閉まっていた。
中写真、ホテルからの眺め。
右写真、スタート前の様子。Naは”鞆の浦”を十分に探訪の後、電車で”竹原”へ向かう予定。 7:55
左写真、鞆の浦から海岸線沿いに西へ向かい、”しまなみ海道”の手前で暫し、休憩。背景は内海大橋。アーチがきれいだ。 9:10
中写真、尾道大橋(画面左、東側)および新尾道大橋が並ぶ真下だ。
この後、尾道へ入り、開店前の店を訪れ、”尾道ラーメン”で早いランチ。ラーメン屋から海に出ると格好のデッキがあった。
右写真、デッキ上の記念石碑には刳り抜き穴がある。ココから新尾道大橋を展望せよとのことらしい。
左写真、デッキの対岸は向島。渡し船が頻繁に行き来していた。
中写真、JR尾道駅。山の上に天守閣ようの建物。工事資材の運搬が大変だったろうナ。
右写真、三原を通過し、沼田大橋を渡る。和田沖総合グランド前で暫し休憩。 和田交差点を左折南下。右手は筆影山。
左写真、筆影山を回り込んで、竹原市に入る。
中写真、展望台で暫し休憩。瀬戸内海の西の方。
右写真、瀬戸内海の東の方。
左写真、瀬戸内海の静かな海に小さな漁船が浮かんでいる。鮹漁だろうか? のどかである。(展望台からの正面方向、南。)
海岸線を西走して、竹原の市街に至り、竹原港、本川の左岸を遡った。
中写真、右折すると、いきなり、竹原・伝統的建造物群保存地区のメインストリートの真っ直中に出た。正面は「竹鶴家の小笹屋」。
ココ竹鶴家は、古くから酒造業を営み「小笹屋」の屋号で知られ、またニッカウヰスキーの創始者竹鶴政孝氏の生家として有名。
現在の建物の外観は、入母家妻入の前面に3尺の庇を出した主屋と、その南に同形の2棟が並び、北側には「旧座敷」が連続している。
江戸時代から残る蔵を改築した小笹屋酒の資料館には、代々伝わる酒器や酒造りの道具など約50点が展示されている。
右写真、照蓮寺の本堂。
左写真、照蓮寺の山門。この楼門は、一間一戸イッケンイッコ形式。正面の柱間が1間で、その柱間を通路とする。(3間1戸形式などが多い。)
なお、閑古鳥旅行社HPに以下の説明があり、照蓮院の楼門は般若寺の楼門によく似ている。
【般若寺の楼門】 般若寺の楼門は、屋根が入母屋造の本瓦葺き。二本の門柱の前後にそれぞれ一本ずつ、計四本の控柱を設けた四脚門(よつあしもん)形式の門である。すなわち一間一戸(いちげんいっこ)の簡素な造りとなっており、このように楼門でありながら一間幅という門は極めて稀である。上層は柱間に二本の柱を入れた三間幅の作りであり、下層と上層で柱間数が異なる点も珍しい。
中写真、「山門の上に上がって鐘を突いてもよい」と言われ、急な階段を上がった。大きな鐘だが、音は大きくない。花頭窓から見下ろす新緑が目に染みる。
右写真、国の重要文化財である高麗鐘コマノカネの実物を写させてもらった。(上の鐘はレプリカ)
なんでも、小早川隆景が幼時の学問所であった照蓮寺に寄進したと伝える。
陽鋳の銘文の「伐昭大王」は高麗第4代光宗のことで「峻豊4年」は光宗の14年(963)にあたる。
わが国に伝来する紀年銘のある高麗鐘としては3番目に古い。 (現地案内板より)
左写真、頼惟清タダスガ旧宅。安永4年(1775)頃の築。惟清は頼山陽の祖父で、ココで紺屋を営んでいた息の春水は広島藩の儒学者となり、その子が山陽。
中写真、長生寺。
右写真、長生寺からの眺め。
左写真、頼山陽広場の山陽の銅像。後が朝日山らしい。
中写真、通りの端っこの民家2階から犬が顔を出し、伝統的建造物群保存地区を眺めていた。
右写真、正面は胡堂、右手は頼惟清タダスガ旧宅。 小振りの鯉幟は、太い竹の小枝に括られていた。
【竹原】
竹原は平安時代に京都・下鴨神社の荘園として拓かれた町であり、鎌倉時代に小早川氏が地頭として赴任。以後同家の支配下にあった。
江戸時代には広島藩が塩田開発に乗り出し、赤穂から製塩技術を導入して、製塩をベースに栄えた。
町人文化が花開き、頼山陽で知られる頼家などの文人を輩出して、「安芸の小京都」と呼ばれた。
なお、Architectural Map には建築の立場から「竹原」についてのコメントがあり、面白い。
その中で、次のような指摘は適切だと思う。
「竹原が近代化する中で塩田は市街地に変えられていき、本川西岸、竹原駅、市役所があるエリアが新市街地になった。
この新市街地はご多分に漏れず衰退の道を辿っており、シャッター街と化している。
広大な塩田を市街地に転じて、近代化圧力を吸収できたので、旧市街(江戸時代中期の街区)がそっくり保存された。
必ずしもポテンシャルの高くない竹原の旧市街にこれ以上開発圧力が及ぶとは考えにくく、町並みが観光資源として立派な価値を持つとの認識が広まったこともあり、この町並みが破壊される懸念は少なくなった。
そこそこの観光地に育っている竹原だが、観光客が観光バスで大挙して押し寄せてくるテーマパークにはなっていない。
竹の街を演出する試みとして竹細工工房が置かれており、竹のライトアートイベントを開くなど、身の丈の範囲で地域づくりに取り組んでいる姿勢には好感が持てる。
ただし、住民の高齢化等に伴って建物の維持が難しくなる現状があり、保存しながらの活用をどうするのかが、今後の重要な課題となっている。」
ホテル大広苑 に宿泊。
【3日目】
【GPS走行軌跡】 竹原〜広島 (58km)
翌朝、朝飯前に再び、伝統的建造物群保存地区を訪ねた。
左写真、犬矢来が道端の水路の上に掛けてあった。これは、犬のオシッコを防ぐのではなく、人が落ちるのを防ぐための”人矢来”か?
中写真、胡堂(恵比須社)。
右写真、胡堂の中では、エベッサンが笑っていた。
左写真、照蓮寺山門から下を見下ろす。門の内側左右にかんざし燈籠が立っている。かんざし燈籠は、尾道に多いらしい。
中写真、山門の上には木彫りの大きな龍の上半身が横たわっている。
右写真、そして、山門の裏側に回ると、龍の下半身が彫られている。
この龍は1本の木の裏表に彫られているので、「龍頭山・照蓮寺」というのだと、近所のお婆さんが教えてくれた。
下の見事な龍の写真は、ブログPENTAX FA43/1.9Ltd で見付けた。複写転載させていただく。
左写真、松阪邸(竹原市指定重要文化財)に朝日が当たっている。
右写真、”竹原”には”竹”が豊富なのだろう。
竹原をスタートして北進し、旧山陽道に向かう。 7:30
左写真、現・山陽道を南に下って横断し、田万里川を渡る。(写真は辿ってきた北方向。)
中写真、旧山陽道の間の宿場「田万里市」の説明板。後の恵比寿社神社の玉垣は往時の名残。
右写真、落ち着いた田万里市を上っていく。
左写真、東広島呉道路の手前のきつい坂を唯一人登っていくのは若手新人・T。
西条の西からJR山陽本線に沿って走る。
中写真、八本松駅の先の景色のよいトコロで早い目のランチ休憩。目の先に瀬野川。 11:20
右写真、JRの列車が何度も通過していった。
左写真、後は現・山陽道は高架になっている。
中写真、上瀬野あたりではJRを何度も渡り、国道にも出て怖い目にあったり、
右写真、JR瀬野駅を過ぎて、やっと一息。街道のすぐ左手(東側)に瀬野川が流れている。
左写真、幅広の大きな葱に大きな葱坊主が。葱坊主には白い大きな花がいっぱい。
中写真、葱坊主の左上に見える先に黄色い花粉を付けているのが雄蘂。細長く白いのが雌蘂。
右写真、JR安芸中野えきの少し先、砂走に「旧山陽道中野砂走り出迎の松跡」の石碑があった。画面右は瀬野川。
左写真、海田駅近くの”千葉家住宅”(県重要文化財)。
神保屋(千葉家)は海田市で年寄、組頭などの役職を勤め、幕府の書状や荷物を扱う「天下送り」や藩のものを扱う「宿送り」も担った。。
中写真、広島駅にゴール。 13:40
右写真、これは、広島電鉄の最新型で”5100形 Green mover
max”と言うらしい。広島駅前の風景である。
【旧山陽道の参考地図】 「太陽コレクション地図 京都・大阪・山陽道」(平凡社、1997年)より複写転載。(map集に全ルート分あり。)
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下の山陽道mapは山陽(中国)街道歩き旅から引用させていただいた。
今回は、川辺から広島まで走ったことになる。
【参考HP】
古代の道 、 コスモスが咲き乱れる「吉備路」を行く
百街道一歩の山陽道
旧西国街道(旧山陽道)
街道歩きの旅 山陽道
旧山陽道を辿る
旧山陽道(西国街道)ウォーキングガイド
広島付近の山陽道map