チョットずつ奥の細道 c    金沢から丸岡まで


今回の旅の概要を下表に示す。(2〜3日目のHPは下表からリンク)

旅順記号 日 程   サブタイトル  宿泊地   寄り道
c−1 1日目 2011年10月26日(水)  金沢、手取川まで 金沢泊
c−2 2日目 10月27日(木) 手取川から小松、山中温泉まで 山中温泉泊 実盛塚、首洗い池
c−3 3日目 10月28日(金) 山中温泉から那谷寺、丸岡上がり 安宅の関

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チョットずつ奥の細道 c−1        金沢から丸岡まで その1

       金沢、手取川まで

                                2011年10月26日(水)


      ※ 教材用に作られたHP、奥の細道をたずねて・加賀版が丁度、今回の旅をカバーしている。


京都8:11発の”サンダーバード3号(富山行)”に乗って、金沢に10:25に着いた。(所要時間:2時間14分)


ありがたいことに、三人の友の一人”金沢の人”が出迎えてくれた。
20数年振りだろうか。

ホテルに連れて行ってくれて、荷物を預ける。
 ヴィアイン金沢 (〒920-0858 石川県金沢市木ノ新保町1番1号) TEL 076-222-5489
駅中ホテルはホント便利だ。


彼は、私を一人にしておいて大丈夫だろうかと少し不安気な表情ながら、アドバイスと資料を呉れた。

まずは、地図で説明された通りのルートを辿って、浅野川に架かる中島大橋に出た。


なお、右mapの赤線が本日の走行軌跡。青線は明日早朝の軌跡。












浅野川の左岸沿いを走る。
主計カズエ町緑水苑でチョット休憩
その真ん前に、
左写真、白木作りの中の橋(一文橋)



右写真、主計町の落ち着いた佇まいが中の橋の上流側に延びている。






左写真、浅野川大橋が近い。
3径間連続固定アーチ構造で、国の登録有形文化財。



右写真、橋の袂から主計町を振り返る。








左写真、久保市乙剣宮クボイチオツツルギグウ。



右写真、久保市さんのすぐ右手に立花北枝住居跡の小さな立札があった。
立札に曰く”北枝はその居を転々ととしており、一応旧観音町(現・東山)に始まり、旧下新町(現・尾張町)春日町と住みかわり、そこに「源意庵」を構えていた。芭蕉が訪れたのは、尾張町説が有力で、そこで「あかあかと」の句も初めて披露されたものといわれている”
北枝はココから越前丸岡まで、芭蕉の細道旅に同行した。
(偶々、私も今回の旅は丸岡で上がった。)
すぐ近くの泉鏡花記念館はパスして、金沢城に向かう。




左写真、金沢城北側の大手堀。
(黒門前から写す)



右写真、大手堀端のきれいな遊歩道。








左写真、石垣が雄壮である。


右写真、前田利家像の前を通る。
(大手門〜石川門にあった白鳥堀跡)



兼六園前のさくら茶屋で駐輪し、荷物を預かってもらって、兼六園へ。





兼六園のmap(from 石川県HP




























桂坂から入り、大体。時計回りに回る。

左写真、苔と落葉の具合がgoodである。



右写真、落葉の掃除をしていた人達がお昼休みで引き上げていく。







左写真、噴水。



右写真、夕顔亭あたりから見える石垣。









左写真、瓢池の南を回る。



右写真、霞ヶ池。正面は蓬莱島。









左写真、秋明菊。
兼六園内では花を目にしなかったが、唯一、
成巽閣の前の芝生の中で見た。



右写真、兼六園に接している成巽閣の塀。
向こうに見えるる赤門も立派だ。
(残念ながら、水曜日は休館)




成巽閣】 セイソンカク
13代藩主前田斉泰が兼六園の東南に母親である眞龍院の隠居所として建てた建物で、金沢城から見て巽の方角(東南)にあることから巽御殿と呼ばれた。
ココで晩年を過ごした12代奥方・隆子(眞龍院)は明治3年に生涯を終え、ココの所轄は国、県、前田家と推移し、現在は財団法人・成巽閣により運営されていて、昭和13年に旧国宝、昭和25年に重要文化財に指定されている。


東端の山崎山に上って下り、
左写真、芭蕉句碑。
句碑「あかあかと・・・」)



右写真、七福神山の景。







左写真、徽軫コトジ灯籠の紅葉が彩づいていてくれた。コレは見事になるのだろうナ。


再び、桂坂からで出る。
右写真、向かいの石川門。
工事中だ。


さくら茶屋でランチ休憩の後、芭蕉が通った犀川大橋を渡って、南下する。


まず、13:30に見学予約をしておいた妙立寺忍者寺)に行く。



ココは、3代藩主前田利常公の命により、城内にあった祈願所を移して、まず運上町に創建され、日蓮聖人の法孫・日像上人作の祖師像を安置している。

百万石の加賀藩は外様大名の雄として徳川幕府から厳しい監視下におかれていて、利常は幕府の軍勢を迎え撃つための態勢を整えていったらしい。
金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し城の防備とした。
特に犀川は川幅もあり、犀川大橋以外には架橋せず渡し船を用いていたが、これは、福井方面からの幕府軍の侵攻を想定したものである。
寺町台で迎え撃つとの計画に基づき、寺町寺院群に出城の役目を持たせた。
この寺に、その万一の場合の出城の中心的役割を持たせたと言われる。
そのため、建物全体が迷路状の極めて複雑な構造を有し、今日では『忍者寺』の別称を持っている。

確かに見応えがあった。
                   (写真はMAPPLE観光ガイドHPから)




妙立寺境内、本堂右手の狭い路を進むと、

左写真、願念寺(小杉一笑の菩提寺)。
ココで、7月22日一笑追善会が催された。
門前に「芭蕉翁来訪地、小杉一笑墓所」として、『つかもうごけ我泣声ハ秋の風 芭蕉』の碑。句は真跡を拡大し刻した。
(左は寺の来歴の石碑)


右写真、境内の「一笑塚」。
『心から雪うつくしや西の空』(一笑辞世)




左写真、成学寺ショウガクジ。
左の碑には「蕉翁墳」と大きく刻まれているのが画面でも見える。
但し、麦水の筆で「あかあかと日はつれなくも秋の風」と刻まれているのは分からない。
(真ん中のは「物持たぬ身の・・」と大きく刻まれているが、この碑は古くない。)


14:30、金沢市内を発して、旧街道を南西に走るルートに入った。
(野々市)(松任)(上柏野)(下柏野)(水島)を経て、手取川に向かう手筈だ。
しかし、金沢市内の端っこ(野々市市との境界のすぐ手前)の横川交差点で、道を間違えた。
ココで、左にチョット振っている157号線と別れて、直進する194号線に入ったのはいいのだが、交差点すぐ左手にある細い道(コレが旧道)に気付かず、さらに直進してしまった。(ココは分かり難い)
(157号線は交通量が多い上に路肩が極端に狭く非常に危ない。ココを走るのは非常に疲れる。)

その後、地図にない新道がアチコチにできていたりして、(野々市)(松任)は旧道から外れて通過し、(上柏野)でようやく旧道に戻った。

(下柏野)(水島)を通って、夕暮れ迫る手取川に無事、辿り着いた。(157号線)

右写真、手取川橋。 16:40
手取川は霊峰白山に源を発し、手取川橋より白山が望めるはず。

手取川右岸の道を走り、一旦、北陸線の線路を越えて、小舞子駅に到着。
小舞子駅17:02発の電車に乗って、金沢へ戻った。


駅中ホテルでシャワーを浴び、コインランドリーを回して、”金沢の友”と落ち合う。
料亭で魚をご馳走になる。さすが、金沢である。ノドグロの姿造りは特に旨かった。
最後は、風呂を廻って、今日の疲れが吹き飛んだ。感謝!



                2日目 手取川から小松、山中温泉まで


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