チョットずつ奥の細道 c−2        金沢から丸岡まで その2

    手取川から小松、山中温泉まで

                             2011年10月27日(木)



朝、夜明けを待って6時過ぎにホテルを出る。”宮越”に向かって北西方向に走る。
芭蕉は7月23日、金沢の俳人雲口らに誘われて、宮の腰(現在の金石カネイワ)を訪れた。
左写真、本龍寺本堂。(金石西3丁目)



右写真、『小鯛さす柳すゝしや海士が軒』の芭蕉句碑が本堂前左手にある。
この句は宮越に遊んだ時のモノ。この句碑は昭和24年、蔵月明翁によって建てられた。






左写真、本龍寺境内には江戸後期の豪商銭屋五兵衛の墓がある。
銭屋五兵衛は加賀の人。日本海側や大阪との間での海運、問屋、両替商などを手がけ巨富を築く。
晩年、河北潟埋立工事を行なって漁民の怨みをかい、罪を得て獄中で病死(1773-1852)。

ホテルに戻り、荷物を持ってチェックアウト。
駅構内の喫茶店で朝食。

8:19発の電車に乗車して、昨夕の小舞子駅に向かう。





右図は、本日の軌跡mapである。

1)最初のflag(一番北)は”JR小舞子駅”。
  ココから、まずは手取川右岸沿いの道を遡り、
  手取川橋を渡って南下。

2)日本海の海岸線近くまで進み、
  次のflagは”安宅の関跡”。

3)その次のflagは小松市内のランチ休憩の食堂。

4)次のflagは、ほんの少し北上し、小松城跡。

5)大分離れて、一番下のflagは、山代温泉。
  ここでバスに乗り、宿泊地の山中温泉に向かう。
  (茶色の軌跡の南東端が山中温泉。)






右写真、前方は手取川橋。
大観覧車は手取フィッシュランド
ココに架橋されたのは明治21年。(木橋)
昔は水量が少ない時は徒渉でき、春の雪解けなどの増水時は舟渡しだった。(粟生の渡し
芭蕉の時は、徒渉できた模様。





手取川橋を渡り、(157号線から分かれて)右に進む。


左写真、吉光ヨシミツの一里塚
県内に唯一残っている一里塚(北陸街道の粟生宿駅)で、榎の樹齢は約100年。


右写真、梯カケハシ川に架かる小松大橋。
3月に新橋の盛大な開通式が行われ、周辺部の工事が大規模に進められていた。


工事に天神さんも敷地を提供した模様で、今はアクセスも非常に不便だった。





左写真、小松天満宮門前の芭蕉句碑。
“あかあかと日はつれなくも秋の風”


右写真、天満宮の朱の神門。









左写真、社殿。



右写真、十五重石塔。









左写真、正光寺(真宗大谷派)の門前を半分覆う”まんじゅう屋”で焼きたての饅頭を買って喰った。(11時)



右写真、 梯川右岸を下流に向かって走る。
前方は北陸高速道の橋。








左写真、河口手前の橋。
こんもりした岡が安宅の関。



右写真、橋の袂から河口を写す。








左写真、安宅住吉神社



右写真、御社殿。









左写真、お稲荷さんの横に弁慶像。



右写真、与謝野晶子歌碑









左写真、安宅関跡の碑。
松林の向こうは日本海。



右写真、昔からやっている”みなとや食堂”でランチ休憩。 12:00
(京町交差点を南に少し入ったところ)







左写真、本覚寺ホンガクジ。
ずいぶん大きい真宗のお寺。



右写真、建聖寺








左写真、建聖寺門前の「はせを留杖ノ地」碑。


右写真、なぜか建聖寺はゆっくり訪ねるのを躊躇った。。



境内には、翁塚や句碑がある。
また、蕉門十哲の一人・立花北枝による芭蕉座像(木造)が残されている。
座高18p、横幅17p、厚さ9.6p。
像裏面に「元禄みのとし北枝謹で作之」とある。







左写真、菟橋神社ウハシジンジャ拝殿。

ココは広い敷地で、参道手前右手には、
右写真、莵橋神社”おすわさん”の結婚式殿諏訪会館が大きく建っていた。

初め得橋郷郷内三十か村の総社であった。
相殿に諏訪神を祀っていて、明治8年、菟橋神社の社号を停止、小松諏訪神社と改称させられたが、明治15年、菟橋神社と復称。

菟橋神社では、毎年8月26〜28日には秋祭りの「西瓜まつり」が行われる。
本来は「水火スイカ祭」で、風水害、大火除けを祈願するもの。その祭りで西瓜を売る店が多く出て、祭りの名も「西瓜」になった。
曽良随行日記に、「7月27日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。・・」とあるのは、この西瓜祭。
神社入り口の脇に、芭蕉の「しほらしき 名や小松ふく 萩すすき」の句碑が残されている。


左写真、小松城の天守台。



右写真、小松城の石は主に、鵜川石という地元産の凝灰岩が使われている。
加工しやすいが弱い石だ。








左写真、芦城公園。
名城・小松城は、明治に入って、入札で払い下げられ、石垣は崩され堀は埋められたとのこと。この公園も小松城の一部分だった。



右写真、錦木。
枝の”翼ヨク”がチョットしかなく、ニシキギらしくない。






左写真、本折日吉神社(山王社)。
芭蕉が7月25日、山王社の神主宅に行き、句会(一座の世吉ヨヨシ連句)を催している。
【世吉連歌・四十四連歌】
連歌・連句様式の一つ。一巻が四四句からなるもの。
一の折表八句、同裏一四句、二の折表一四句、同裏八句の二枚懐紙、すなわち、百韻の初折と名残りの折とからなる。
-日本国語大辞典



右写真、山王句会で芭蕉が詠んだ
「しほらしき 名や小松ふく 萩芒」の句碑。




左写真、多太タダ神社の本殿。
芭蕉は7月25日、多太八幡に詣で、実盛の甲や直垂の錦を見た。その後、上述の山王句会に出た。



右写真、芭蕉句碑。
「むざんやな甲の下のきりぎりす」
7月27日、諏訪神社の西瓜祭を見に行った後、山中温泉へ向かう前に、再び多太神社に寄って、この句を奉納した。






左写真、多太タダ神社参道の芭蕉像。


右写真、多太神社に残る実盛の兜(国重文)。
高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg。
木曽義仲が願状を添え、実盛の遺品を奉納した。
現在は兜、袖、臑当スネアテを見ることができるらしい。



この後、小松市中心部から南南東に走る。



左写真、月津一里塚跡を通過。


白山神社前を通過。

月津町郵便局の三叉路で、北陸道は直進・南下するのだが、私は右折し、篠原古戦場を訪ねるべく、まずは柴山潟の右端を目指す。


右写真、(進行方向)南方向に山の端が連なり、雄大な景が広がっている。





左写真、”白山眺望スポット”。
南加賀路(加賀市干拓町)のスポットで、正面中央に白山が見える。(南東方向)



右写真、御橋川が柴山潟に注ぐアタリから振り返って、御橋川に架かる橋を写す。
この橋は、歩道が無くて怖かった。







左写真、(上と)同地点から進行方向を写す。
前方の高い建物はホテル・アローレか。


右写真、柴山潟から流れる新堀川の河口。


この辺りは源平争乱の舞台「篠原古戦場」。
1183年、倶利伽羅峠大勝の余勢をかって攻めたてる木曽義仲軍を相手に、敗走する平家軍の中で、たた一騎、踏みとどまって戦ったのが斉籐別当実盛。





左写真、篠原古戦場・実盛塚
奮戦空しく、手塚太郎光盛に討たれた実盛がココに葬られたとの伝説。
(20号線沿い、汐見橋を渡って少し先の左側に、やっと、見付けた。)

右写真、首洗池
実盛は義仲幼少時の恩人であったが、名乗りを上げず、老齢を侮られぬよう白髪を染めて戦った。
その首を樋口兼光がこの池で洗うと、黒髪はたちまち白髪に変わり、実盛のものだと分かった。







左写真、首洗池の脇の像。
斉藤実盛の兜を前に、義仲(実盛の首を抱いている)、兼光、光盛が悼んでいる。


右写真、池の畔の芭蕉句碑。
「むさんやな兜の下のきり ゞ す」


16:10




この後、柴山潟の西側を南下し、片山津温泉の旅館街(東、柴山潟側)を通り抜ける。
JR動橋イブリハシ駅のすぐ東側で線路を渡り、山中温泉を目指して、一路南下する。
山代温泉の入口に饅頭屋(御菓子司丸福)があったので、饅頭を一つ求めてかぶりつき、空腹を満たし、休憩する。  17:00
聞くと、すぐ前にバス停があり、山中温泉に行くという。ラッキー!急いでバス停に向かい、自転車を畳む。
畳み終わらない内にバスが来たが、なんとか間に合う。
無事、山中グランドホテルに着き、存分に湯に漬かって、ご馳走にありつく。















 from 山中温泉HP



                                     

                             奥の細道のTopへ   

                      ”黒いバイク の ペダリング”Topへ