チョットずつ奥の細道 d−2     隅田川、春日部から小山まで その2

          春日部から小山

                                                2012年4月25日(水)


 

上mapの赤線が、本日(2日目)の走行軌跡である。
一番下(南)のflag”JR春日部駅”をスタートし、”幸手”、”古河”を経て、”小山”のホテルへ入った。



GPSの記録によると、本日の走行距離は55.5km。所要時間:8時間42分(走行時間:5:35、停止時間:3:06)。走行速度:9.9km/h。
(高度が100mほど急激に下がっているのは、mapの”古河”のflagの位置で、GPS機の不具合かも知れない?)



左図は、横山吉男「日光街道歴史ウオーク」東京新聞出版局より転載。

このmapで言えば、
奥の細道・芭蕉ルートは、
江戸・千住を通り、草加、春日部、幸手、古河を経て、小山まで日光街道を北上。
小山で壬生道に入り、壬生、鹿沼を通って、今市で再び日光街道に合流し、日光に至っている。
すなわち、

・ 春日部から小山まで日光街道(日光道中)を北上。
・ 小山で、左の壬生道に入り、鹿沼の手前(楡木)で日光例幣使街道と合流。
・ 今市で日光街道(日光道中)と再び合流し、杉並木の道を日光へ向かう。


なお、日光御成街道は、左mapでは非常に薄い点線表示であるが、江戸日本橋を起点に、本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て幸手宿の南で千住からの日光道中と合流する5宿12里(50km弱)で、家康を祀った日光東照宮を将軍が参詣するために通行する。



今回は、芭蕉ルートを春日部から小山まで走り、小山で壬生道を少しだけ覗いて戻ってきた。























    

   左写真、春日部駅をスタート。 8:54

      中写真、日光街道を1km近く江戸側に戻って、東陽寺(南の門、裏門?)へ。奥に鉄筋コンクリート造の立派過ぎる本堂があった。
           「奥の細道」の1泊目は春日部(粕壁)であり、ココ、東陽寺(曹洞宗)に泊まったと言われているらしい。

         右写真、本堂階段の右手下に石碑が建っている。
              ”曾良随行日記”の最初の項に、「廿七日夜、カスカべニ泊ル。江戸ヨリ九里余」とあるが、石碑にはこの字句が刻まれていた。

    

   左写真、老舗の田村本店前には、郵便ポストと道標が立っている。
       道標には、「西南いハつき、東江戸、北日光、右乃方陸羽みち、天保五年」と書かれているらしい。元々は、数百メートル先の”追分”に立っていたモノを移したとのこと。

      中写真、交差点手前右手に”田村”荒物店。

         右写真、最勝寺。 ”追分”を越えて走ってしまったが、正面に立派な寺があったので、写させてもらった。(その後、追分まで一筋戻った。)

    

   左写真、新町橋で大落古利根川オオオトシフルトネガワを渡る。

      中写真、新町橋の上流側。右手が本流の大落古利根川。左手の細い川が古隅田川。みんな歴史のある古い川だ。

         右写真、小渕一里塚。日本橋から9番目の一里塚。左の石柱が”史蹟小渕一里塚跡”、右は庚申塔らしい。

     

   左写真、小渕追分。大きな屋敷と塀が残っている。日光街道は左手の道で、右の屋敷前の道は関宿往還らしい。
       道標が2基残っていて、右手は、「左方あふしう道」「右方せきやど道」、宝永6年(1709年)建立。”あふしう”は奥州。

      中写真、追分の左手の大きな道標。左面に「左日光道」、正面に「青面金剛」、宝暦4年(1754年)建立。

         右写真、小渕山観音院(鎌倉中期の建立、寺号は正賢寺)の仁王門。
              東陽寺もそうであったが、小渕山観音院にも芭蕉第1日目の宿との言い伝えがある。(奥の細道・旅の宿

     

   左写真、境内には芭蕉の句碑もあるらしい。「毛のいへば唇さむし秋の風」 (芭蕉の句HP、写真は花蕾日記

      中写真、本堂。画面中央に大きな銅鑼ドラが見える。

         右写真、特別大きな銅鑼である。

     

   左写真、観音院から5、6百メートル北へ走ると、梨畑があり、白い花弁が一面に散っていた。近くに「梨と巨峰」直売店の看板が出ていた。

      中写真、北緯36度線と国道4号線との交差する地点に設置された、杉戸町のウエルカム・モニュメント

         右写真、旧道にはいると、九品寺があった。九品寺の脇に「青面金剛」と彫られた庚申塔があったが、道標の役割もしていたそうな。

      

   左写真、杉戸町町役場付近に残っている旧道の面影。

      中写真、東武動物公園へ向かう道との交差点に三井住友信託銀行があり、ポストの隣に「明治天皇御小休所址阯」の石碑があった。

         右写真、新道と合流する直前にあった立派な家。杉戸宿の名残だろう。

     

   左写真、新道(4号線)に入って喧噪の中、歩道を少し走ると、小さな小さな祠が、多分、民家の敷地の端っこに残されていた。戻って、手を合わせた。

      中写真、幸手駅のすぐ東側の旧道に、明治天皇幸手行在所の石碑があった。画面左は高層マンション。

         右写真、その先の旧道。幸手宿の雰囲気が少しだけ残っていた。

    

   左写真、幸手の旧道に面した”旅館・あさよろず”は、文政二年(1819年)より、日光街道を通る旅人のための宿として、明治の元勲や行商人など、数多くのお客様をお迎えしてきたそうな。

      中写真、「日光街道」の標識があった。県道岩槻幸手線と書かれている。

         右写真、真言宗・正福寺ショウフクジ。なかなか立派な寺で、ココは江戸時代、学問の研究や弟子を養成する常法談林であり、当時は49寺の末寺を持っていて、将軍徳川家光の代、御朱印13石を賜っていたとのこと。
            なお、浄土宗の「関東十八檀林」が名高いが、真言宗の場合は「関東十一談林」と言う。“談”と“檀”の字の違いがあるが、僧侶の養成機関ということらしい。

     

   左写真、正福寺には歴史と風格を感じた。

      中写真、境内にある「幸手義賑窮餓之碑」。天明3年(1783)の浅間山大噴火による大飢饉に際し、米や金を出して幸手の民を救った21名の義人を讃えている (県指定文化財)。

         右写真、正福寺のトコロで道は大きく曲がっている。ソコのトコロに”ふぐとうなぎ”の店「はす沼」があった。丁度お昼前である。飛び込んで定食をいただいた。
             ココの若大将(店主兼板長)は、南三陸町に3回ボランティアに行ったとのこと。先週は、ワカメの収穫を手伝ってきたそうな。

     

   左写真、行幸橋で中川を渡る。(画面の右の方には明治天皇行幸記念碑があるはず。)
      対岸の堤の濃いピンク色は桜だ。画面中央に行幸水門橋があり、その先は権現堂川になっている。右端には斜張橋が写っている。
      行幸橋を渡って直ぐに左折し、日光道中にはいる。

      中写真、日光道中の雰囲気を味わう。

         右写真、外国府間の電電社湯殿社。平成14年に再建されたらしい。新しい石鳥居の左右に屹立する公孫樹の老木には若葉が出始めていた。

    

   左写真、江戸から14番目の一里塚跡。現在、塚の上に右手の堤防(現・権現堂川)から移築された弁財天堂が建てられている。

      中写真、山吹を生垣にしている家があった。庭が山吹でぐるっと囲まれている。山吹の生垣は初めて見た。右手は昔の堤防で、4号線が走っている。

         右写真、街道から少し外れて左折し、”静御前の墓”へ参った。

   

   左写真、栗橋駅。

      中写真、利根川橋の手前の堤に立っている「栗橋関所跡」の説明板に描かれている関所模型図。(栗橋町総合文化会館に展示されているらしい。)

    

   左写真、利根川橋を渡る。

      中写真、板東太郎・利根川は大河である。(上流側を写す。鉄橋はJR東北本線か?)
      橋を渡れば、茨城県古河コガ市。(日光街道は茨城県(古河市)を少しかすめて、直ぐに栃木県に入るのだが。)

         右写真、光了寺。
      

   左写真、光了寺の本堂。本堂左手前のヒバ(ヒノキ科)は樹齢180年で、古河市の名木古木。

      中写真、大きな雨受け。

         右写真、山門左側に芭蕉句碑。 「いかめしき音やあられのひのき笠」 があった。

    

   左写真、茶屋新田歩道に”松並木”が街路樹として復活されていた。
       幕末の志士・清河八郎が安政2年に記しているように、往時は古河までの一里半にはきれいな松並木が続いていたらしい。

  きれいに整備された古河の街に入った。ピカピカである。最高に気持ちがイイ。走り疲れて、甘いモノが欲しくなっていた。
  「清水屋菓子店」を見付け、飛び込む。  饅頭を注文し、長椅子でお茶もいただく。
  古河の話をいろいろ聞いて、ふと見ると、水槽に大きな金魚がいる。

      中写真、25cmはある。(スケールを借りて写した。) 
         夜店で掬ってきた普通の金魚が長生きして、こんなに大きくなったとのこと。(確か、20年以上とか言っていた。)

         右写真、その饅頭屋の2軒北側に、「史跡・古河城御茶屋口門跡」と彫られている石碑が建っていた。


                                                           from 古河市教育委員会の案内板

   「御茶屋口」は、旧日光街道に面し、かつてコノ地にあった「御茶屋」に由来し、日光社参時の将軍の休憩所として設けられたらしい。
   宿城である古河城へ向かう「御成」の入口がこの御茶屋口だったのだ。
   饅頭屋のお上さんの言う通りに、この「御茶屋口」で左折して、西に入った。(上写真の太線)

 【日光御成道】 from 百街道一歩の日光御成道  (一歩氏の道中記シリーズは充実していて、大いに参考になる。)
 日光御成道は、日光道中の脇往還として、江戸日本橋を起点に、本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て幸手宿の南(上高野村)で千住からの日光道中と合流する5宿12里(約47km)の街道を言う。
 この街道は、日光東照宮を将軍が参詣するための街道で、御成道というのは、将軍が通行する街道ということから呼ばれたもの。
 道中、岩槻城に一泊、さらに古河城、宇都宮城に泊まって、日光へ向かったらしい。

    

   まず、「ぬた屋」で、古河名物らしい”鮒の甘露煮”を買った。(鮒は琵琶湖のらしい。)

   左写真、まず、鷹見泉石記念館の門をくぐった。鷹見泉石は古河藩の家老で蘭学者だったとのこと。

      中写真、馬酔木の大樹。枝振りも見事である。暫し、見入った。

    

   時間の関係で、残念ながら、古河を足早に走って回り、北上。野木へ向かう。

   左写真、野木神社の長い長い参道。

      中写真、野木神社本殿。

         右写真、本殿の雨水が縦樋を伝って画面左下の大きな鉄の水瓶に溜まる。

   

   左写真、野木神社の二輪草

      右写真、こんなに群生しているのは初めて見る。

  

   左写真、神社境内の「芭蕉句碑」。石には「芭蕉墳・一疋のはね馬もなし河千鳥」と彫られている。
      しかし、この句は『俳諧一葉集』に収録されているものの、「存疑」の句とされているらしい。

      中写真、垣間見た社務所の庭園が素晴らしかった。

         右写真、野木宿の道標。


    

   左写真、法音寺の立派な山門。  (野木駅の北側)
   中央に立ちはだかるように賽銭箱が置かれているので感じが悪く、右手の庫裏に向かう門から入った。コチラにも賽銭箱はあった。入れた。

      中写真、本堂。

         右写真、山門の脇に建つ立派な芭蕉句碑。  「道ばたのむくげは馬に喰れけり
           この句の出典は『野ざらし紀行』で、1684年、大井川越えでの馬上吟。 『道のべの木槿は馬にくはれけり』


      

   間々田まで走って、
   左写真、泉龍寺の本堂。  法音寺もそうであったが、コノ辺りのお寺では芝桜が流行っているのかな。

      中写真、本堂の左手は墓地だが、東日本大震災で全ての墓石が倒れたとのこと。画面中央の十三重塔だけは鉄筋が入っているので倒れなかった。

         右写真、芭蕉句碑。 1694年に深川で詠んだ「川上とこの川下や月の友」が彫られているらしい。
              字の消えかかった小さな碑なので、人のよさそうな住職は「もっと大きな碑だったらいいのに」と申し訳なさそうに言われ、恐縮した。
   時刻は16時50分。小山へ走る。

   17:30、スーパーホテル小山に到着。まずは、温泉で汗を流す。
   ホテルで紹介された居酒屋で旨い魚と地酒をしこたま飲んだ。オヤジとも話が合い、瓦斯会社の新入社員は元気で、地元の偏屈小父さんは酒呑みだった。



                    3日目 小山ポタリング、壬生道まで      


                             奥の細道のTopへ   


                      ”黒いバイク の ペダリング”Topへ