チョットずつ奥の細道 h−2     今市から那須湯本まで その2

      矢板〜黒羽
                                                         2013年4月29日(月)


【本日の走行ルート】 下mapは本日の走行計画であり、ほぼこの通り走った。マークが付いているのは立ち寄り予定ポイントである。




【矢板市】       from wikipedia
高原山(たかはらさん)の南麓に広がり、山岳地帯及び森林、里山に囲まれ、箒川、宮川、内川などの河川が北から南へ流れる。北部山岳・森林地帯は全国名水百選に選ばれた尚仁沢湧水の水源となっており水源の森百選に選定されている高原山水源の森や森林浴の森100選に選定されている栃木県民の森、八方自然休養林、八方ヶ原など豊かな自然の宝庫で環境教育、ハイキング向けに整備されている。高原山は古くは山岳宗教の対象でもあった。中部は南北に小高い丘が連なる塩那丘陵の尾根に挟まれた宮川、中川、内川が流れる平地があり水田地帯が広がっている。南部は関東平野の北端ともいえる平地と小河川に刻まれた小高い丘の丘陵地からなり塩谷町から流れてくる荒川に接している。また中央部から丘陵をひとつ隔てた西部は箒川、江川流域に那須野が原に連なる平地が広がり水田地帯となっている。




   国道4号線(奥州街道(陸羽街道))を北上。

     【奥州街道】 
       江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川へと至る街道である。
       下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。
       明治6年に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道、八戸自動車道が通っている。

   左写真、栃木県北西部の広大な山林地帯を控え、昭和50年頃までは市内各所に大きな製材所が見られたらしい。まだ残っている。

      中写真、箒川で東北本線が少し上流側を渡っている。
            箒川を越えると、那須野ヶ原に入る感じだ。

         右写真、西郷神社のヌマスギは大田原市の市指定天然記念物とのこと。BD-1のすぐ後もヌマスギ。
            西郷神社は西郷従道(西郷隆盛の弟)を祀ってある。従道が訪米した折に苗木を持ち帰り植樹したらしい。
            コノ地辺りは明治14年に西郷従道と大山巌によって開墾された土地で、明治34年に今の加治屋部分が分割され、
            西郷従道の個人経営となり、西郷農場となったらしい。

    西郷従道の登場についても、下記の【那須野ヶ原】で、理解できた。栃木県HPは簡にして要を得ている。
    芭蕉が訪れた時は、「那須東原・那須西原(約1万ha)の大半は村々の入会まぐさ場として利用され、毎年春先に焼かれたために、広漠たる原野。」
    の様子だったのだ。


【那須野ヶ原】    from 栃木県HP

那須野ヶ原とは
     略図

 那須地域は、日本が近代国家として生まれ変わった明治初期の、意欲に燃える為政者たちの新しい国づくりのロマンが、今なお息づいている土地柄であり、
 那須野ヶ原の自然にも、人々が100年かけて育んできた品格があります。

明治期の華族農場

明治 農   場 開 設 者 爵位 代表的地位 面積(約ha)
14年
佐野農場
青木農場
加治屋開墾場明
明34 { 大山農場西郷農場
佐野 常民
青木 周蔵
(大山・西郷)
大山  巌
西郷 従道
伯子

公侯
農商務大臣
外務大臣

陸軍大臣
海軍大臣
257
1576
500
 
273
248
}
16 傘松農場 品川弥二郎 農商務大臣 257
18 毛利農場 毛利 元敏 旧豊浦藩主 1326
19 三島農場 三島 道庸 警視総監 1037
20 戸田農場 戸田 氏共 旧大垣藩主 883
21 千本松牧場 松方 正義 総理大臣 1650
26 鍋島農場 鍋島 直大 旧佐賀藩主 383

隣接地
19 山縣農場 山縣 有朋 総理大臣 728

出典「那須野ヶ原開拓のあらまし」(磯 忍氏著)



【那須野ヶ原】の説明への長い寄り道だったが、元に戻る。
芭蕉の「那須野ヶ原」の旅路を理解する上で、私には非常に役に立った。




   左写真、大田原氏の居城であった大田原城。

      中写真、この上が本丸などの跡である。

         右写真、築城法に適った防御を第1とした要塞だった。徳川時代は対奥州への鎮護の城だったらしい。




   左写真、蛇尾川の流れ。この川は上記【那須野ヶ原】の説明図における(狭義の)那須野ヶ原のど真ん中を流れている。

【蛇尾川】(さびがわ、じゃびがわ)  from Wikipedia
那珂川水系箒川支流。那須野ヶ原扇状地では伏流し、大雨の時以外は水が流れない。
この流域は川沿いでありながら水利の便が悪く、かつては不毛の荒野であった。
芭蕉の時は、一面、荒野であったのだ。

      中写真、国際医療福祉大学への通学道だろう、幅の広い、自転車にとっては最高の歩道だ。車道にも何も走っていなかったが。

         右写真、ココからは日光の山々が遠く、小さく見える。那須野は広い。




   左写真、那須神社参道。

      中写真、楼門。

         右写真、拝殿。

     

   左写真、西教寺 曾良句碑
       かさねとは 八重撫子の 名成るべし   曾良
    「おくのほそ道」の”那須野ヶ原”の段では、芭蕉自身の句はなく、曾良のこの句のみを記している。私もこの句が好きだ。
    広漠たる原野を無事歩き切った芭蕉のハートにも、小娘”かさね”ちゃんは実に思い出深かったと思われる。

      中写真、
修験光明寺跡句碑
         夏山に 足駄アシダを拝む 首途カドデ哉

         右写真、鹿子畑翠桃スイトウ(浄法寺桃雪トウセツの弟)宅跡・墓地。親族の方々のお墓もあるとのこと。(地元の方の話。)




   左写真、常念寺。牡丹が見事であった。
           なお、牡丹は「花王」、芍薬は「花相」と呼ばれるらしい。ボタンは木 で、シャクヤクは草だとか。

      中写真、浄法寺桃雪(黒羽の館代) の建立と伝えられる句碑
         野を横に馬牽むけよほととぎす

         右写真、常念寺の本堂。



   左写真、明王寺句碑
      今日も又 朝日を拝む 石の上

      中写真、那珂橋。 昭和8年竣功、橋長166.8m
          下を流れるのは那珂川。向こうの建物は本日泊まるホテル花月。

         右写真、那珂川の上流側。


    (ホテルに荷物を預けて、雲厳寺ウンガンジへ向かう。)

 

   左図、雲厳寺境内図。
   右図、仏頂和尚旧跡の図。        いずれも from 「図説・おくのほそ道」萩原恭男監修



   左写真、雲厳寺の入口。

      中写真、山門への石段。 (2人のうら若き女性がモデルになってくれた。)

         右写真、仏殿。




   左写真、仏殿と後ろに方丈。左手は勅使門。

      中写真、芭蕉句碑
        木啄キツツキも 庵は破らず 夏木立

         右写真、芭蕉の尊敬する仏頂和尚の山居跡は画面の奥。(立ち入り禁止)




   左写真、裏門へ。

      中写真、「平和観音」。

         右写真、「平和観音」の裏手の白椿。




   左写真、雲厳寺の道向こうには、公民館。あまりにも立派な公民館。雲厳寺さんが建ててくれたとの話。

      中写真、唐松峠の先に見事な鯉幟が泳いでいた。

         右写真、その少し先から振り返って写す。快適な下りである。
            右手は牛舎で、黒い母牛が写っている。牛舎の奥に生まれたばかりの仔牛が居た。
            バックに八重桜が満開である。

     (黒羽の中心部まで戻った。)




   左写真、大雄寺の石段の長い参道
      黒羽藩主大関家の菩提寺。

      中写真、参道石段の途中の羅漢さん。

         右写真、総茅葺の。本堂




   左写真、回廊。赤椿がよく似合っていた。

      中写真、旧浄法寺邸の道路に面したトコロにあった芭蕉句碑
         田や麦や中にも夏のほとゝぎす

         浄法寺邸には、芭蕉は4月3日〜4月14日まで2週間も逗留している。

         右写真、浄法寺邸の見事な庭園。




   左写真、浄法寺邸庭園の芭蕉句碑
       山も庭にうごき入るるや夏座敷

      中写真、浄法寺邸庭園。赤いモミジが陽光を浴びて輝いていた。

         右写真、芭蕉の広場の句碑
            鶴鳴くや 其声に芭蕉 やれぬべし




  黒羽芭蕉の館をじっくりと見学させてもらった。 (見学者は我一人)

   左写真、芭蕉の館の前の芭蕉と曾良の像。

      中写真、これはボタンかシャクヤクか?

         右写真、芭蕉の館の前庭に”黒羽城三の丸跡”の標柱が立っていた。

 左写真、16:00、ホテル花月にチエックインして、那珂橋を写す。コノ色もよく似合っている。


【黒羽での芭蕉の足跡】は以下の如くであったらしい。
  芭蕉が黒羽に残した14日間の足跡HPはよく纏まっていて、分かりやすい。

元禄2年(1689)4月3日(陽暦5月21日)黒羽入り。
  まずは、余瀬の翠桃宅へ
4月4日   浄法寺桃雪宅へ(10日まで泊まる)
4月5日  雲巌寺へ
 4月6日〜8日 雨天
4月9日  修験光明寺へ
4月10日  なし
4月11日   翠桃宅に戻る
4月12日 犬追物跡、玉藻稲荷神社など見物
4月13日 那須神社へ
4月14日 図書来訪、終日滞在歌仙興行(句会)
4月15日  図書宅に行き、泊まる
4月16日 余瀬を出立し、殺生石へ向かう。



  最後に示す次の「くろばねお句碑めぐりMAP」は非常に分かりやすい。転載して、謝意を表したい。






                                3日目 殺生石      


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