チョットずつ奥の細道 i−3   山路と川路  


          山刀伐峠 ナタギリトウゲ
                                                         2013年6月15日(土)

本日は記録写真が少なく、また携帯で撮したため、画面が非常に小さい。お許しあれ。

朝、新庄のホテルを出て、大石田駅まで新幹線。
大石田付近は、2012年7月30日(月)にポタリングしているので、本日は真っ直ぐに東に走り、尾花沢に向かう。

下の軌跡mapは大石田から山刀伐峠への往路を示している。緑色の線は乗車したバスの走行軌跡。




【 1 】 尾花沢では、まず市役所へ向かった。市役所10:40発の市野々行き市営バスに乗る予定なので、その確認のためである。
土曜日だったので、市役所は閉まっていて、少し困ったが、バス停の時刻表で一応確認できた。

バスの待ち時間に「芭蕉・清風 歴史記念館」を訪ねる。
江戸時代末の商家(旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋)を清風宅の隣に移転復元した建物とのこと。
記念館は、広い土間のある二階家で、芭蕉が訪れた当時の尾花沢の雰囲気を伝えている。
中に入ると、落ち着いた静かな空間でゆっくり見学できた。涼しくて汗が引いたのも有り難かった。

  

【 2 】 次に、市営バスに乗って”市野々”へ向かう。
上のmapの緑線がその走行軌跡で、バスの起点・市役所前および終点・市野々バス停にflagが立っている。
(帰りは自転車で走った。下りは楽だった。)

【 3 】 市野々バス停前で自転車を組み立てて坂道を走り出す。      11:30
歴史の道入り口の駐車場に到着、駐輪。                      11:50

【 4 】 山刀伐峠までの山路を登る。





左図は、 ”おくのほそ道山刀伐峠保全整備協議会”のおくのほそ道 山刀伐越えHPに示されている”総合マップ”である。
本日は、このマップの一番下からスタートし、中程の”山刀伐峠”までを往復した。









左の”山刀伐峠マップ”の赤い線(芭蕉が通った旧道)は「歴史の道」として一応、整備されている。
今回は、マップ下の駐車場の横に自転車を止めて、峠までを徒歩で往復した。









左の図は、芭蕉の山刀伐峠越えの様子を描いたものである。













峠越えの「歴史の道」入り口に駐輪し、山路に入る。      11:50

      右写真の如く、倒木で路が通せんぼされている箇所もあった。

         

   この路は、暫くは誰も通っていないようだ。




              道しるべがなく、少しだけ、横道に入ってしまったこともあった。  12:20

                        細い山路だ。   12:30

                                  白いきれいな花に暫し足を止めた。    12:36

  無事、峠に到着。
  峠の手前から人の声が聞こえていたのだが、赤ん坊を連れた若い夫婦が地蔵堂を掃除されていた。
  寒河江の人で、年に一度くらい子宝地蔵様にお参りに来ているそうだ。


  

   左写真、「奥の細道 山刀伐峠」の碑。

      中写真、「子宝地蔵」。その手前左手は「子持ち杉」。推定樹齢350 年とのこと。
           お地蔵様は峠の守神、老杉は峠の目印だったとか。

         右写真、東屋で握り飯特大を2個にかぶりつく。


【 5 】 峠から来た路を引き返し、尾花沢の町中をポタリング。                     13:30

下図は、復路の軌跡で、赤線は山中(歴史の道)、青線は自転車。



  

   左写真、山中の澄み切った田園風景風景を楽しみながら快適に飛ばす。

      中写真、この石碑には馬頭観音と彫られていたはず。

         右写真、市野々の集落の外れに建っている「関谷番所跡の標柱」。
           曽良随行日記5月17日に「市野ゝ五、六丁行テ関有。」とある関所の跡。

           曽良随行日記の同日・5月17日「昼過、清風へ着、一宿ス。 十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。」と記されている。
         すなわち、
        芭蕉と曾良は5月17日に、山刀伐峠を越えて、無事、尾花沢にたどり着いた。すぐに旧知の俳人・鈴木清風を訪ねた。
        清風は紅花問屋を経営していて相当に裕福な”紅花大尽”であったが、談林派の俳人でもあり、芭蕉とも交流があった。
        芭蕉は、清風に歓待され、尾花沢に10泊の長逗留をしている。((清風邸3日、養泉寺7日)
        「奥の細道」には、お礼の意味も込めているのだろう、次の4句が記されている。

           ・ 涼しさを我やどにしてねまるなり
           ・ 這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声
           ・ 眉掃きを俤にして紅粉の花
           ・ 蚕飼ひする人は古代の姿かな  (曾良)

        丁度、紅花の開花時期であったためだろう、清風は翌、5月18日に芭蕉を養泉寺に案内した。
        そして、芭蕉と曾良は養泉寺に7泊している。


 

   左写真、養泉寺の本堂。

      右写真、境内にある『涼し塚』。宝暦12年(1762)に建てられた「涼しさを我宿してねまる也」の句碑。
      右隣に「壷中居士」と彫られた石碑がある。 壷中は、村山地方を代表する蕉門の俳人の名で、
      山寺・立石寺に「蝉塚」を俳諧仲間と築いた人らしい。

尾花沢で少しゆっくりしたので、時間が無くなり、養泉寺の後、朝に寄って確認しておいたタクシー乗り場に急行。
しかし、この日は生憎、土曜日の大安で車は全て出払って仕舞ったと、タクシー会社の社長さんが申し訳なさそうに言う。
新幹線に間に合うように大石田駅に着くには走るしかない。全力で走りきって、新幹線に間に合い、山形空港から無事、帰阪。
終わりよければ全てよし。


                                  

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