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     須賀川 ・乙字ヶ滝 → 郡山 → 安積山

                                                         2013年9月30日(月)

 
昨夕、生じた、”クイックレバーの不具合でハンドルが畳めない”問題を解決するために必要と思われる、小さな両口スパナと6角棒レンチは郡山で
入手することとして、予定通り、ホテルサンルート須賀川 http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/80784/rtmap.html をスタート。

まずは、乙字ヶ滝を訪ねることとし、阿武隈川に向かう。
地図で見ると、右岸の河川敷に細い道が続いている。現地に行くと、どうやら、サイクリングロードのようだ。快適に走れそうだ。
ところが道路からロードへのアクセスがなかなかできない。
山寺へ向かった時、立谷川の自転車道の場合もそうであった。あの時は、堤防の草むらを無理矢理越えて降りた。
今回もいくつかの地点で試みて、やっと、ロードに立てた。
(サイクリングロードはどこからでもアクセスできるようには設計されていないようだ。)




   左写真、この辺りには桃畑が多い。

      中写真、実にうまそうで、いい色をしている。

         右写真、強行アクセスしたサイクリングロードは誰も走っていない。農道と共用である。メンテナンスは十分ではない。しかし快適だ。





   左写真、三角形の田圃の稲刈りは終わっている。

      中写真、。“みちのく自転車道”の標識。

         右写真、ロードはズーッと阿武隈川沿いを走っている。

【乙字ヶ滝】    from 須賀川市HP 

那須連峰に源を発する阿武隈川が、国道118号の境に、石英安山岩質凝炭岩の断層をつくり、水が乙字の形をして流れ落ちる「乙字ヶ滝」は、
水かさを増すと100mの川幅いっぱいに落下する様が小ナイヤガラの滝とも言われ、「日本の滝100選(平成2年)」に選ばれています。
元禄2年には俳聖松尾芭蕉が訪れ、その時に詠んだ「五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉」の句碑が滝見不動尊御堂の傍らに建立されています。
また、江戸時代、阿武隈川の舟運の最大の難所と言われ、滝の北側の岸壁を堀割り工事をして船を通した運河跡があり、当時をしのぶことができます。
乙字ヶ滝左岸にある乙字ヶ滝遺跡は、約2万年前の石器、石斧などが出土し、須賀川市で最も古い遺跡です。

なお、須賀川市HPの須賀川の歴史に芭蕉7泊8日の旅日記と題して、
芭蕉の須賀川における8日間(陽暦6月9日〜15日)が実に的確に分かりやすく紹介されている。




   左写真、乙字ヶ滝。これは見応えがある。

      中写真、ココを舟運するとは考えられない。


         右写真、芭蕉句碑。          「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」

          この句は、曾良編「俳諧書留」に記録されているが、” 須か川の駅より東二里ばかりに、石河の瀧といふあるよし。
          行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ ”の前書きが付いている。
          なお、石河の瀧は乙字ヶ滝のこと。


【阿武隈川の舟運】  街道Webに詳しく紹介されている。

 阿武隈川の舟運の最大の難所は当然、ココ、乙字ヶ滝であった。
 始めは長さ30間(約54m)、幅8尺(約2.4m)の樋状の水路を作って 通船していたらしいが、洪水により破壊した。
 安政5年(1858)から岩盤を掘削して水路を作る本格的な工事が始められたが、当然難工事であった。
 24年の歳月をかけ、明治15年(1882)に、長さ92m、幅4.5m、出口の深さ2.4mの水路が完成した。
 この水路ができるまでは、乙字ヶ滝の上下でそれぞれ舟運を行い、一旦、積み荷を陸揚げして運んでいた。




   左写真、滝見不動尊御堂。芭蕉句碑はこの傍らに建てられている。

      中写真、わがBD-1も一休みしている。

         右写真、芭蕉と曾良の目は乙字ヶ滝を向いている。しかし、二人とも堂々とした体格である。





  サイクリングロードをバックして、郡山を目指す。

   左写真、稲刈り、脱穀が終わって、藁を束ねて干してある。

      中写真、岩山の絶壁の下部が崩落して阿武隈川に転がっている。

         右写真、棒稲架ハザで刈り取った稲を乾燥させている。





   左写真、撓わに実った稲を背景にコスモスが咲いている。

      中写真、49号線を進む。   田村神社の大きな石柱

         右写真、BD−1を下に置いて石段を上がると、途中、右手に句碑があった。


           

   左写真、芭蕉句碑。

           「風流の初やおくの田植うた」    やはり、この句は福島県における代表句と言えよう。

      中写真、句碑の横に、芭蕉280回忌記念(昭和48年)に建てたと大きく書かれている。

         右写真、田村神社の本殿。



           

   左写真、吽形像。                 中写真、仁王門。                      右写真、阿形像。




   左写真、49号線を進み、阿賀野川の支流・谷田川を渡る。

      中写真、阿賀野川本流を渡る。

         右写真、水はきれいだ。

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  郡山駅に着いた。工具を求めて、ホテルで聞いていた駅西方向の「ビバホーム」へ行って、無事、調達。
  Loroさんに電話をして、オンラインで聞きながら、この工具を使って修理できる。
  しかし、こんな時に、今度は携帯電話に不具合が発生。ドコモショップを探すが、なかなか無い。
  イオンタウンになら有るかも知れないと聞き、南下する。
  なんと、ソコに自転車屋「AEONBIKE」が有るではないか!地獄に仏である。早速飛び込む。
  あーでもないこーでもないといろいろ試みて、最後は力を込めて引っ張ると、無事、クイックレバーが開いた。
  原因は分からないが解決したのだ。
  遅い目の昼飯をイオンタウンで食って、AEONBIKEに礼を言って、奥州街道・現県道355号線に戻る。


       

   左写真、うろうろした郡山駅付近

         右写真、世話になったAEONBIKE





   左写真、郡山駅。

      中写真、水の流れている洒落た公園で暫し休憩。

         右写真、本栖寺を通過。





   左写真、福島交通・向山バス停付近に少しだけだが、松並木が残っていた。

      中写真、蛇骨地蔵堂。
            江戸時代後期の建築様式の仏堂である堂内には、蛇骨を刻んで作ったといわれる地蔵菩薩が安置されています。
           「佐世姫物語」という霊蛇にまつわる伝説が、お堂の縁起として伝えられています。
           霊蛇の人身御供となった者を観音としてあがめた三十三観音像が、堂の裏手の石垣下に立っているほか、
           付近には蛇穴や蛇枕石など伝説に関係する史跡が多く残されています。     郡山市観光協会HP

         右写真、西方時の笠松。

     ( 走行ルートは ”日和田駅〜安積山公園map”参照 )

     芭蕉が「おくのほそ道」で、『 かつみかつみと尋ね歩いて、日は山の端にかゝって仕舞った 』 安積山は公園に整備されている。       

       

   左写真、安積山公園map。  

         右写真、芭蕉が「かつみかつみ」と探し歩いた「花かつみ」を細道300年を記念して植栽すると書かれていた。





   左写真、奥の細道文学碑。

、     碑には、芭蕉の「おくのほそ道」で次の一節が記されている。
     ”  等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿をはなれてあさか山あり。路より近し。此のあたり沼多し。
      かつみ刈る比もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞと、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。
      沼をたづね尋ね、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。 ” 

      中写真、「あさか山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに  采女ウネメ歌」

 なお、細かい話しを付け加えると、
  采女の歌は、「万葉集」巻16(3807)には、結句「わが思はなくに」とあり、「古今和歌六帖」*には、下の句が「浅くは人を思ふものかは」となっている。
  井原西鶴の「一目玉鉾」(元禄2年刊)巻1にもこの歌形で掲出してあるから、当時はこの歌形で広く行われていたと想像される。
  歌碑の「もはなくに」は「思はなくに」に同じであるが、当時の「万葉集」の読み方に従ったものと思われる。
     from 「奥の細道の旅ハンドブック改訂版」久富哲雄、1994/6/3、三省堂

 *  【古今和歌六帖】  
 名歌を分類して作歌の指針とした平安中期の類題和歌集。分類基準は天地人の三才に草木鳥虫を配し,それらを25項,516の題に下位分類した。
 編者は未詳。成立年代は10世紀後半,《後撰集》より後,《拾遺集》より前と推定されている。
 流布本(1669年刊本)の歌数は約4270首(重出歌,類似歌の処理の仕方で数は異なる)。
 《万葉集》からの1200首,《古今集》からの700首をはじめ,広い範囲から資料をもとめ,本書にのみ見える作はほぼ1000首程度と推定される。
    (世界大百科事典 第2版の解説)


以下、郡山商工会議所HPより抜粋
 約千三百年前、陸奥の国安積の里(現・郡山市)は冷害が続き朝廷への貢物ができないほどだった。
このため奈良の都から巡察使葛城王が訪れた。
里人たちは窮状を訴え貢物の免除をお願いした。しかし、その願いは聞いてくれなかったという。
その夜、王をもてなす宴が開かれ、王は里長の娘、春姫を見そめた。春姫は心から王をもてなし、

安積山影さえ見ゆる山の井の 浅き心を我が思わなくに

どうしてご機嫌が悪いのですか。安積山のふもとに山の井の清水があります。
安積山の影を水面に映し、浅い井戸のように思われますが、どうして、どうして、とても深い清水です。
それと同じで私たちが王をお慕いしている気持ちはとても深いものです。どうかご機嫌を直して下さい。と詠み献上した。
    from 「安積釆女とその時代」(今泉正顕氏著)

 王は大変喜び、春姫を帝の采女として献上することを条件に、貢物を三年間免除することになった。
 春姫には、次郎という相思相愛の許嫁がおり、悲しみをこらえて別れた。
 都での春姫は、帝の御蘢愛を受けていたが、仲秋の名月の日、次郎恋しさに猿沢の池畔の柳に衣をかけ、入水したように見せ、
 愛する次郎の待つ安積へ向かった。

  里へたどりついた春姫は、次郎の死を知り、雪の降る夜、あとを追って次郎と同じ山の井の清水に身を投じた。
 やがてみちのく安積の里にも春が訪れ、山の井の清水のまわり一面に薄紫の美しい可憐な花が咲き乱れていた。

 だれ言うともなく、二人の永遠の愛が地下で結ばれ、この花になったのだと噂をした。
 「安積の花かつみ(学名ヒメシャガ)」とは、この花のことです。



         右写真、JR日和田駅。


 JR東北本線・日和田駅→郡山駅15:52着。JR水郡線・郡山駅発水戸行き15:55→泉郷駅16:25着。
 BD-1を組み立てて、63号線を空港まで走る。約5km。18:00着。
 ANA : 福島空港19:05→伊丹20:15




                                  

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