チョットずつ奥の細道 l-2 仙台 → 塩竃 → 松島
2015年6月15日(月)
本日の走行軌跡は上mapの赤線である。
すなわち、仙台から一路、塩竃に向かい、
塩竃から観光船に乗って、松島へ。
松島では宿に荷物を置いて、瑞巌寺などを訪ねた。
左写真、榴ヶ岡公園の緑陰で暫し休憩。大きな立派な公園である。
この公園の西側にある榴岡天満宮に「あかあかと日はつれなくも秋の風」 の芭蕉句碑が建っているとのこと。割愛。
「曾良随行日記」に、
快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮を拝、玉田・横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂古ヘ国分尼寺之跡也。
とあり、 芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月7日(新暦6月23日)、この榴岡天満宮に参詣している。
中写真、岩切大橋を渡る。
次に、多賀城を訪ねる。
上、右写真は多賀城の外郭南門の推定復元図。八脚門の立派な構えである。
そして、左写真は多賀城の復元模型。
地元で、相当力を入れて整備を進めているようだ。
「多賀城」は、
奈良~平安時代に、①陸奥国府 ②陸奥、出羽両国を統括 ③蝦夷対策の拠点であった。
外周は、築地で囲まれ、900m四方あり。
中央に政庁、城内各所に役所、工房、兵舎が配置されている。
上、多賀城跡の全景。 http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-24.html
左写真、壷の碑(つぼのいしぶみ)が入っている覆堂。( 芭蕉の時には、覆われていなかった。)
中写真、「壷の碑」
有名な多賀城碑。かつては「壷の碑(いしぶみ)」として歌枕にもなっていたが、その後所在不明となり、
江戸時代に土の中から発見された。芭蕉の時代にはこの碑が歌枕の「壷の碑」と信じられていた。
現在では多賀城の由来を伝える奈良時代に建てられた碑として国の重要文化財に指定されている。
芭蕉が訪ねた時は、覆いはなく苔むした状態で立っていたようだ。
「おくのほそ道」には、わざわざ一節を設け、
『 つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。
此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年
参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣修造而、十二月朔日と有。
聖武皇帝の御時に当れり。』 と前段に記し、後段には、、
『 むかしよりよみ置ける歌枕おおく語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、
木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡のたしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千載の記念
(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、泪落るばかり也。』と
歌枕「壷の碑」を眼前にした感激を述べている。
「おくのほそ道」旅で、多くの歌枕を訪ねてきた芭蕉であったが、いずれも年月を経た変容ぶりに落胆していたので、
千年を経ても変わることのない文字を刻んだこの「碑」を見ることができて、”泪落るばかり”に喜んだ。
右写真、「壷の碑」 の拓本とのこと。 http://www.intweb.co.jp/basyou/5sendai_matusima.htm
碑文には、多賀城の位置、創建・改修時期、碑の建立年月日などが記されている。
天平宝字6年(762)12月1日建立。
左写真、多賀城の築地跡。
中写真、築地跡から真っ盛りの菖蒲園(多賀城跡あやめ園)を見下ろす。「あやめ祭」が行われていた。
右写真、花菖蒲と。
この後、塩釜市に入り、塩釜駅のすぐ南で東北本線を渡る。
仙石線西塩釜駅のすぐ北のうどん屋に入る。
11:00なのだが、気持ちよく怪しいおっさん(じっちゃん?)のために、店を開けてくれた。
地震の話をいろいろとした。
この店では、床上10cm位の浸水だった。
海から川の話になり、運河の話しにまで広がった。
ココで「貞山運河」のことを教えてもらった。
貞山運河(ていざんうんが)は、宮城県の仙台湾千石線沿いにある運河である。江戸時代から明治時代にかけて
数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので「貞山堀」とも呼ばれている。
最初の堀が仙台藩・伊達政宗の命により開削されたため、諡の貞山に因んで明治時代に貞山堀と名付けられた。
地図を見ると、確かに、海沿いに運河が延々と延びている。米を船で運ぶために政宗が造ったと言っていた。
塩釜の中心部を走り左折し西に入る。新しく整備された道路が鹽竃神社まで続いているのだ。
すぐに、清酒「浦霞」の大きな看板の店があり、その続きに真新しい白壁の建物がある。
左写真、
塩竃の本町にある御神酒酒屋・佐浦酒造(「浦霞」醸造元)の玄関として移築された元・法連寺の向拝。
法連寺は鹽竃神社の神宮寺であったが、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、向拝は多賀城市の寺が譲り受けた。
それを、この度、市民グループが元・法連寺の近くの御神酒酒屋に移築したとの説明板が出ていた。
震災後の塩釜の再生整備、町おこしの一環かも知れない。
なお、芭蕉と曾良は、法蓮寺門前の宿「治平」に投宿している。(仙台の加右衛門の紹介状があった。)
中写真、表参道の社号標「東北鎮護鹽竃神社」。
右写真、鹽竈神社の別宮(主祭神)と左右宮の配置図。 from wikipedia
コレがなかなか分からなかった。
【鹽竃神社】
鹽竈神社は別宮に鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)・左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)・右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)の御三神をお祀りしている。
志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、二社が同一境内に鎮座している。
志波彦神社は式内社、鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社。
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。
志波彦神社は志波彦神を祀っている。 この神は鹽竈の神に協力し、国土開発・殖産とりわけ農耕守護の神として信仰されている。
志波彦神社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、『延喜式』に収められている陸奥国百社の名神大社として
朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。 明治4年5月国幣中社に御治定されましたが、境内も狭く満足な祭典を行うことが不可能な為に、
明治天皇の御思召により、勅使御差遣の上 「・・・・・・此地に新宮造奉りて鎮め奉らむ日まで、此御殿の内に座せ奉り併せ祭らせ給ふが故に、
御幣帛奉出し仕へ奉らしめ給ふ事を平らけく聞し食せと・・・・・・」 と奏せられ、明治7年12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀されました。
以上は参考までに、アチコチの資料の抜粋を並べた。
境内案内図
左写真、表参道の石鳥居。神額は「陸奥国一宮」。
中写真、左右宮拝殿。
説明板によると、
第18回鹽竃神社社式年遷宮の事業の一環として行って参りました「鹽竃神社別宮・左右宮拝殿漆塗り替え、銅板屋根葺替え工事」は
平成26年12月をもちまして無事工事を完了致しました。
平成27年の初詣には麗しく修繕された別宮、左右宮のご両宮拝殿を皆様にご参拝いただけることとなりました。
3年ぶりにご両宮拝殿が揃ってお目見え致しました。
右写真、仙台藩主から寄進された銅鉄合製燈籠。
文化年間仙台藩に於いて蝦夷地警備の命を受けて出役、無事帰還の報賽として藩主・伊達周宗チカムネ公より寄進せられたとか。
左写真、大きな錨が数カ所に置かれていた。社務所で聞くと、漁業関係者からの安全祈願だと言っていた。
中写真、「林子平考案日時計」レプリカ。本物は境内の塩竈神社博物館にある。
林子平の学友である塩竈神社の神官藤塚知明が、 寛政4年(1792年)奉献したらしい。
右写真、拝殿の傍らにある鉄製の灯籠、「文治の灯籠」。
鹽竃神社を崇敬する奥州藤原三代秀衡の三男和泉三郎によって文治3年(1187年)7月に寄進された。
和泉三郎こと藤原忠衡(ただひら)は、文治5年、義経を最後まで守り、義経と共に兄の泰衡(やすひら)に滅ぼされた。
23歳の若さであり、その2年前に灯篭を寄進している。
ただし、本物の灯籠は戦争中に供出されてしまい、コレは戦後作られた複製品とのこと。
「おくのほそ道」の塩釜の段を以下に引用する。 :
早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。
かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、
「文治三年和泉三郎奇進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。
誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云り。 日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。
左写真、表参道202段の石段。コレを往復した。
中写真、仙石線本塩釜駅すぐ西にあった「芭蕉船出の地」説明板。
芭蕉は早朝、鹽竃神社などを拝観の後、正午にはこの辺りから松島に向けて出船した。芭蕉の頃はこの辺が海岸線だったのだ。
右写真、松島湾観光船の乗り場。マリンゲート塩釜。
左写真、周辺では防潮堤の外側に港湾用地が建設工事が進められていた。
中写真、この観光船「あおば」に乗った。
右写真、まず、仁王島。
左写真、鐘島。道門が4つある。
中写真、鎧島。鎧の帷子に似ているとのこと。
右写真、千貫島。伊達政宗が気に入り「この島を館に運んだものには銭千貫を与える」と言ったらしい。
from Google
上の航空写真からも、「松島湾奥において津波被害が小さかったのは,松島湾の沖合い(出口)に配列する島々が,
天然の津波防潮堤の役割を果たしたため」と言われていることがよく分かる。
それと、松島湾は、間口は狭いが、湾の奧の幅が広がっているのも被害が小さかった理由のように思う。
左写真、観光桟橋に近づくと、正面に五大堂の小さな島が見えた。(写真正面)
右手に見える大きなホテルの真ん中の部屋に泊まった。最高の眺望を楽しんだ。(コインランドリーがあるから。)
桟橋でbd-1を組み立てて、ホテルへ走る。道路からのアクセスに迷い、時間が掛かった。
チェックインし、シャワーを浴びて、まずは五大堂へ。
中写真、五大堂へ渡る”透かし橋”。正面がお堂。 (橋の手前左に駐輪。)
右写真、五大堂は瑞巌寺守護のためのお堂で、五大明王が祀られている。重要文化材で、島全体が聖域らしい。
左写真、五大堂の正面。
中写真、
次は、瑞巌寺へ行く。
伊達政宗は松島にある平安時代からの禅寺「松島青龍山瑞巌円福禅寺」が廃れていたのを見た虎哉禅師のすすめで、
現在の大伽藍に建て替えました。「民安んじ、国安んじるため」戦国時代に亡くなった多くの菩提を弔うための寺としたらしい。
それ以降伊達家の菩提所となり、藩主の避暑に使われたりした。 http://masamune.livinggraceumc.org/matusima.html
ただし、「平成の大修理」(平成20年11月~平成30年3月頃)中であり、
右写真、瑞巌寺本堂は外から見るのみ。 「平成28年4月5日より拝観を再開します」とのこと、建設工事としては終わっている。
南東に面し、正面39.0m、奥行き25.2m。入母屋造・平屋・本瓦葺。慶長14年(1609)完成。
左写真、庫裡。(禅宗寺院の台所)
正面13.78m、奥行23.64m。
単層切妻造本瓦葺で、大屋根の上にさらに入母屋造の煙出をのせる。
中写真、伊達政宗の位牌。
瑞巌寺殿前黄門貞山利公大居士。黄門は中納言の中国名。
右写真、伊達政宗公の正室 陽徳院田村氏 愛姫(1568~1653)の墓堂で、万治3年(1660)孫の綱宗によって造営された。
宝形造、銅板葺、9尺(2.72m)四方の周囲に勾欄(手すり)つきの回廊を廻らし、正面に向拝と木階を備える。
内部は三方板壁で金箔を貼り、天井等は極彩色の花が描かれ、須弥壇に念持仏と政宗・愛姫夫妻の位牌が安置されている。
ココに行く手前に広い静かな修行道場があった。修行僧は今は、2、3人だそうな。地震の後、それぞれの寺へ帰ったらしい。
瑞巌寺参道の杉並木は1/3が津波の塩害により枯れてしまったらしい。
庫裡の前にいた寺の人に聞くと、津波の時には多くの人が避難してきたと言っていた。
左写真、瑞巌寺からの帰り道で見た柏慎の木。松島町指定文化財、ひのき科の常緑小高木。和名はいぶき。
幹の周囲は1.8m、高さ3m、枝は東西7.6m、南北9mほどに広がっている。
樹齢700年以上と推定され、臨済宗円福寺時代から今に伝わる名残りの樹木らしい。
中写真、この迫力。
右写真、朱塗りの渡月橋の向こうは雄島。
この渡月橋は、津波で流されて、再建ほやほやであった。
表参道はまだ通行止めだったので、海岸沿いの裏道のみがアクセス可だった。
雄島には、108の岩窟があったといわれ、現在は50程度残っているらしい。
その昔、死者の浄土往生を祈念した石の塔婆である板碑、岩窟の中には五輪塔や壁面に法名の彫られたものが多く、
霊地の感がある。中世の松島は「奥州の高野」と称される死者供養の霊場であった。
橋を渡り道を左に曲がって短いトンネルをくぐると、三方に岩窟のある崖とわずかばかりの平地がある。
ここは見仏上人が、法華経60,000部を読誦した見仏堂の跡で、奥の院といわれた場所。
現在でも薄暗く、見仏上人は、この場所で12年間もの長きにわたって修行を続けました。 松島観光協会HP
左写真、渡月橋。正面に、早速、洞窟が見える。
中写真、「奥の細道」の案内標柱は見たが、時間の関係で、句碑はパスした。
以下に松尾芭蕉・おくのほそ道文学館から引用させていただく。
雄島にある芭蕉と曽良の句碑。
・ 朝よさを誰(たが)まつしまぞ片心 芭蕉
「桃舐(ももねぶり)集」に見られる「朝よさを」の句は、「おくのほそ道」の旅へ出る直前の元禄2年(1689年)の春に詠まれたもので、
これと同じ時期の句に、「去来文(ぶみ)」に載る「おもしろや今年の春も旅の空」や
3月23日付落梧宛書簡に見られる「草の戸も住みかはる世や雛の家」がある。
「草の戸も」の句は、後に「草の戸も住替る代ぞひなの家」に改められ「おくのほそ道」に採録された。
句碑の側面右に「勢州桑名雲裡房門人」、側面左に「延享四丁卯十月十二日建之」、裏に「仙台冬至菴連 山本白英 (以下略)」。
・ 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良
この句碑は、文化5年(1808年)に曽良の百回忌を記念し、諏訪の俳人素檗(そばく)が遠藤日人(あつじん)に依頼して建てたもので、
書は日人の手による。碑面に上の句と「信州諏訪産曽良同郷素檗建之 石工伊之助」の文字を刻む。
右写真、座禅堂。
寛永14年(1637)、雲居禅師の隠棲所として建てられた。なかなか見晴らしがよい。
左写真、雄島の南端にある六角堂。 この六角堂を鞘堂として、中に奥州3古碑の一つ、「頼賢の碑」が納っている。
中写真、「頼賢の碑」の写真。宮城県HP
この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。
板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を
大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。
下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。
また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の問には双竜の陽刻を配している。
重要文化財(書跡・典籍)|宮城郡松島町|瑞巌寺蔵 (高さ335cm、鎌倉時代)
右写真、碑を写したもの。おくのほそ道文学館所蔵
頼賢は、弘安8年(1285年)に雄島の妙覚庵に入って以来、22年間、島を出ることなくひたすら法華経を読誦し、
見仏上人の再来と仰がれた。頼賢没後の徳治2年(1307年)、弟子の匡心や孤雲ら30名が、師の供養と頌徳のため、
中国・元の使者として在日した鎌倉建長寺住持一山一寧(寧一山)に撰文を請い、雄島の南端に「頼賢の碑」を建立した。
左写真、雄島からの帰り道。「津波浸水深」と貼られていた。(白い板)
中写真、ホテルに帰って、松島を見る。曇り日の夕刻であるが、右写真の景を十分想像できた。
3日目 女川
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