walking     チョットずつ 琵琶湖一周 no.8


地図は、マピオンMapion滋賀県ページから検索するのが便利。
滋賀県の琵琶湖研究所HPに琵琶湖の概要、近江八幡市HPに琵琶湖のあらましあり。

8回目(04年10月28日) 湖北町〜塩津浜

貸切バスで前回のゴールの道の駅・湖北みずどりステーションに11時半頃着いた。
今日は雲一つない最高の秋日和である。

左写真、湖岸の道からは竹生島が少し南に見える。
湖面には渡って来たばかりの鴨たちが一面に浮いて休んでいる風だった。



右写真、尾上の漁港を過ぎると、塩津湾が広がる。
写真中央、一番奥が今日のゴールの塩津浜である。

塩津湾は、琵琶湖の最北部に位置する最大の内湾で、単に琵琶湖といえば、琵琶湖全体から内湾や内湖を除いた部分(外湖)を指すことが多いらしい。





左写真、片山集落。

東浅井アザイ郡湖北町から伊香郡高月タカツキ町に入ると、片山の集落が山裾にへばりついていた。



右写真、小さな渋柿がたわわに実っていた。

今は片山隧道があるが、山を隔てて孤立していたこの集落は、何で生計を立ててきたのだろう。




左写真、黄菊が秋の陽をいっぱいに浴びて元気に咲いていた。


近江・湖の辺の道は集落を北に抜けている。

右写真、この道標から山に入る。(山本山1.9km、賤ヶ岳6.3km)






左写真、細い山道ではレディーズ・ファーストで、男性群がシンガリを固めていた。


右写真、よく手入れされた木々の間から塩津湾の湖面が見える。

道端に、「明治27年頃から昭和37年まで、(伊香郡)片山の児童が現在の古保利小学校へ通学した道」と記されていた。
東浅井郡の学校なら山を越えなくてもよかったのにナァ。







左写真、竹林が少し続いた。



右写真、前方に倒木が横たわっている。
(リュックに挿した「奈良自然塾」の小旗はシンガリの印。)







左写真、古保利古墳群の2番目にあった案内板。



右写真、枯れた赤松を伐っていた。
ココがどうやら左の案内板の古墳らしい。




 【古保利古墳群】 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/03051602.htmなどを編集
古保利古墳群は、塩津湾東岸に面した丘陵上に(西野山から尾根上に一列に)南北約3kmに渡って分布する大規模なもので、墳丘も良好な状況で保存されている。
古墳時代の初期から終末期まで長期間継続した大規模な古墳群で、前方後円墳8基、前方後方墳8基、円墳79基、方墳37基、計132基の古墳からなる。
現在も発掘調査が行われているが、立地や分布状況から、6つの支群に分けられ、それぞれに、1基以上の前方後円墳または前方後方墳が含まれる。
古墳の規模は、前方後円墳では90m、前方後方墳では60mが最大である。
この古墳群は、琵琶湖からの眺望を意識したことがうかがえ、また琵琶湖は水上交通の大動脈であり、湖北地方は畿内・北陸・東海・山陰・若狭の各地を結ぶ交通路上に当たることからも、古墳の被葬者は琵琶湖の水上交通に関与した集団と考えられる。



左写真、葛籠尾崎ツヅラオサキが見えた。


右写真、竹生島チクブシマも見えた。


この直下に西野水道があると記されていた。
西野水道
の岩盤掘削は、江戸幕藩体制下における民間(民衆)主導の非常に困難な大事業であった。





左写真、山本山(324m)が南に見える。



右写真、遠景には伊吹山(1377m)。
手前には、排水トンネル「西野水道」によって大雨のたびの洪水から免れた肥沃な田圃が広がっている。
(ここの赤松も枯れている。)





左写真の湖の辺の道「山本山3.3km、賤ヶ岳3.9km。
奥山の地蔵1.5km、有漏ウロ神社1.5km」にしたがって西へ進む。高月町の道標「阿曽津千軒集落跡1.2km」および遊歩百選「海老越し」の矢印も同方向だった。
(この道は途中まではなんとか4駆が通れる。どうやら西野集落からの作業道か?)




右写真、杉林の道の曲がり角で、塩津湾の奥が見えた。
静かできれいな湖水だ。




左写真、鬱蒼とした杉林の中を降りて、湖岸に出る。
ココでバス釣りの孤舟を眺めながら昼食休憩。

休憩場所の裏手に「奥山の地蔵尊」が祀られていて、
右写真は、その説明。(高月町西野集落の作製か。)
「一つの石に二体刻まれているこの地蔵尊は、その昔、若狭街道?を通行した人々が道中の安全を願って、お花を手向けた道祖神である。
妻を残して旅立った夫は、このお地蔵さんに参って夫婦のきずなを更に、つよめた事であろう。
近在はもとより遠方からも今尚、夫婦の守り神としてこの奥地まで願いに訪れる人々は多い。」と読める。






左写真、一つの石に二体刻まれている地蔵尊。


右写真、薄暗い杉林の中に祠はあった。









左写真、昼食休憩場所の後の石積。



右写真、竹生島と葛籠尾崎を見ながら山路を登る。









振り返ると見事な景色が広がっていた。

バス釣りの小舟の左手あたりでお弁当を食べたのだ。
















ココまでが、高月町。
蛇足ながら、高月は、槻(ツキ;ケヤキの古名)の巨木が多くあることから、まず、「高槻」と名付けられた。
その後、大江匡房(マサフサ)という平安後期の歌人が、この地で月見の名所と歌を詠んだので、「槻」の字が「月」に改められたとのこと。

木之本町に入って、

左写真、有漏ウロ神社の上から降りて来た。



右写真、さらに降りて湖岸に出ると、石鳥居があった。






【有漏神社の「おこない」】  行い=神事をつとめること 
場 所 : 有漏神社(木之本町山梨子1)・氏子周辺
祭礼日: 2月16日に近い日曜日
沿 革 : おこないの前日に区民全員が公民館に集まり、御鏡を搗く。
この時神社の注連縄も作る。
夕刻、公民館に祀られた有漏神社の分霊に御鏡を供え、夜ふけまで座を続ける。
翌日午前10時に神事祭。祭典の後、玉籤を受けて神事当番を決める。
氏神は舟に乗らないと動けないため、近年は公民館に祀る分霊の前で神事が執り行われるようになった。
   (おうみのまつりHPより抜粋・編集)



左写真、湖岸沿いの道を歩く。
(前方に舟が見える。)



右写真、明治以降にココに米倉があって、琵琶湖特有の丸子舟で運ばれていたとのこと。







左写真、石積。この上の敷地に米蔵などがあったのかナ。


右写真、ひょっとして有漏神社のおこないの時に氏子が乗っていた舟ではないだろうか?


対岸の稜線付近を次回に歩くのだ。






左写真、さらに湖岸沿いを進む。
(画面中央あたりが飯浦だ。)



右写真、この辺りからは、竹生島と葛籠尾崎ツヅラオサキの間が大分、引っ付いて見えるナァ。







左写真、野生化した黄菊が咲いていた。



右写真、前方の絶壁のトコロからみなさん戻ってくる。琵琶湖の水位が上がっていて、通れないとのこと。
(よく雨が降ったモノな。今日の秋空に感謝!)

右手の山を回るしかない。





左写真、両手も使って滑りながらもよじ登る。
(落石注意! 撮影時刻14:34)


右写真、道らしきトコを見つけて、下る。
(撮影時刻15:14)







左写真、再び湖岸に出る。静かな湖面が輝いていた。


右写真、山梨子ヤマナシの集落はもうソコだ。









左写真、ススキの向こうに飯浦ハンノウラ。



右写真、山梨子は小さな集落だ。








左写真、広屋の大石。
漁船の古いロープが巻かれたままだった。



右写真、この石は、琵琶湖の水位変動を測る基準石だったとのこと。それにしても昔に比べると、水位が大分下がっているナァ。







左写真、大きな鶏頭が湖に向かって咲いていた。


右写真、おばあさんが小豆を干していた。
筵に豆の影が延びている。








左写真、桜紅葉の向こうに、竹生島と葛籠尾崎。



右写真、山梨子集落への道の入口に「熊」の看板が出ていた。








左写真、北にもススキ。


奥琵琶湖ドライブインでチョットだけ休憩)


右写真、南にもススキ。
(竹生島と葛籠尾崎が引っ付きそうに見える。)





左写真、画面中央右手の山が賤ヶ岳かな。
山本山・賤ヶ岳写真館HP



右写真、山本山から山梨子までが写っている。
昼食休憩が画面中央チョット左、岬を越えて有漏神社、左端から2cmくらいの切り立った岬越えに難儀したのもイイ思い出だ。





左写真、奥琵琶湖の最北の秋の日、山に日が沈む。 (16:12)



やがて塩津湾の一番奥に達し、干拓農地の北の橋を渡ると、山裾に、
右写真の塩津神社があった。

塩津神社のすぐ先で国道8号からに北へ入り、地道を進み、濱御堂・浄光寺の前を通る。子供たちの元気な挨拶に応えながら、北へ西へと歩く。





左写真、おいしそうなミカンがなっているトコロで曲がると、塩津海道に出た。


右写真、塩津海道沿いの土蔵は寛政期のもので、壁の色が黒いのは、太平洋戦争の時に白壁は敵機に判りやすいので黒く塗られた由。
この蔵の前に「塩津海道」と彫られた石碑があった。

【海道】諸国に通ずる主要な道路。古くは「海道」の字を用いたが、陸路に海の文字を用いるのは不合理なためか、東海道を除いて「街道」と書くようになった。







左写真、落ち着いた格調のある建物。軒下に並べられた菊の香が匂ってくる。


右写真、その入口の障子戸、白壁、白菊二鉢。







国道8号に出て、ハイカラな駐在所の前を通り、常夜灯を見て、貸切バスが待っている駐車場に着いた。17時過ぎに発車。
帰り道の月がきれいだった。暦を見てみると、本日は旧暦月9月15日で、大安だった。

  塩津浜については、滋賀県湖北地域振興局木之本建設管理部HP古い町並みを歩くHPに親切な案内がある。
  また、日本ユニシス関西支社HPの塩津、菅浦の説明はお薦めである。