チョットずつ熊野古道 no.3


No.3 天満橋〜津久野駅 07年4月20日   23km



左写真、「八軒家船着場の跡」の碑。
昆布処「永田屋」のシャッターはまだ閉まっていた。(7時10分)
ココから自転車旅の出発だ。


右写真、まずは、御祓筋オハライスジの緩やかな坂道を上る。
ココは、上町台地の北西隅に当たる。





左写真、北大江公園。
右写真、中大江公園。
この辺りは都心に結構広い公園が点在していて、大阪の歴史が感じられる。




(中央大通りを渡る。)




左写真、太閤下水の見学施設(白い三角の構造物のガラス窓から下を流れる太閤下水が見える)。
南大江小学校の南西隅にある。
背割(太閤)下水

右写真、今も現役の太閤下水。
この写真および以下の説明は、朝日放送HPの歴史街道より引用させていただいた。
http://www.asahi.co.jp/rekishi/04-11-03/01.htm




【太閤下水】
豊臣秀吉によって上町台地に築かれた城下町には、整然と区画された道路に面して町家が建ち、その家と家とが背中合わせになっている所に下水が敷設された。
建物と建物の背を割って掘られたので「背割下水」と呼び、またの名を「太閤下水」とも呼んだ。
当時は素掘りでふたのない開渠だったが、後には石垣で護岸を施し、道路の横断部には石のふたがされるようになった。
下水道を備えた計画的な町づくりは、江戸時代にも続けられ、大阪市制が発足した明治22年(1889)には、市内の下水道の総延長は約350kmにおよび、ロンドン、パリに比肩する下水道普及率だった。
この太閤下水は今も現役の下水道として活躍しており、その太閤下水の見学施設が大阪市中央区農人橋一丁目の市立南大江小学校内にある。


左写真、南大江小学校は明治5年の創立。



右写真、南大江公園にある朝日神明社跡碑。
坂口王子の伝承地とのこと。






左写真、御祓筋の道幅が狭くなって、長堀通りへ石段で下りるトコロに、榎木大明神の小さな祠と樹齢670年の御神樹の榎(正確には槐エンジュ。
写真は幹の下しか写っていない。)がある。


右写真、榎木大明神の坂の下に、直木三十五文学碑がある。
近くに直木三十五記念館もあるそうな。
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2005-03-14/01.htm

この坂を下りずに、手前の安堂寺町通りを東へ進む。



左写真、安堂寺町通りにあった寶泉寺という小さなお寺。
町中に昔のままのきれいな佇まいが残っていた。

右写真、きれいな下町の路地もうれしかった。


ついつい行き過ぎて仕舞った。
五十軒筋とか言う道に戻って南下し、長堀通りを渡る。




左写真、五十軒筋の落ち着いた雰囲気。
(五十軒筋という名前は現地では確認できなかったが。)


右写真、五十軒筋から東に入るきれいな路地。



空堀商店街のかっこいいアーケードを見て、上汐筋に入る。



左写真、虫籠窓ムシコマドの家から爺さんが自転車を出して乗っていった。
(近松門左衛門の墓は、この家の西側くらいの位置だ。)


右写真、谷町筋に出て、近松門左衛門の墓を訪ねた。









左写真、千日前通りを横断。
上本町のシェラトン都ホテルが見える。


右写真、四天王寺の石の鳥居から入った。正面は西大門。
四天王寺HPによると、寺に鳥居は奇異に感じますが、元来、鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので神社に限ったものではありません。)






左写真、西大門。
挨拶代わりに、コマのような「転法輪」を手で右に回した。


右写真、六時堂と亀の池。
亀の甲羅の上に鳩が留まっていた。






左写真、南大門から中門(仁王門)、五重塔を望む。
(四天王寺式伽藍配置では、南大門・中門・塔・金堂・講堂が一直線に並んでいる。)


右写真、南大門の内側に熊野権現礼拝石がある。







左写真、超願寺の墓地に、竹本義太夫のお墓があった。
風化が進んでいて、覆いが付いていた。



右写真、庚申堂








JR天王寺駅の東で、線路の下の地下道をくぐり、
左写真の線路の上の橋を渡って、南進する。



右写真、近鉄百貨店前のあべの筋を阪堺電車上町線が走る。






松虫交差点で、あべの筋と阪堺電車軌道の間の道を進む。
左写真、「熊野かいどう」の案内板があり、落ち着いた道だ。


右写真、安倍晴明神社







左写真、阿倍王子神社の鳥居。



右写真、阿倍王子神社の本殿。






左写真、北畠公園の中の北畠顕家の墓
顕家は南北朝時代の公家で、南朝の重鎮として自ら刀を取って足利尊氏の軍勢と戦い、阿倍野の地で戦死した。
(あべの王子商店街で昼飯を調達して、北畠公園で食った。)


右写真、摂津の国一之宮・住吉神社の太鼓橋。





左写真、手前から、第三、第二、第一本宮。



右写真、第一本宮。






住吉大社HPによると

第一本宮から第四本宮の4つの本殿は1810年(文化7年)に造られ、すべて西(大阪湾)向き。
「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり」

御本殿は「住吉造」といわれ、神社建築史上最古の特殊な様式で国宝に指定。








左写真、止止呂支比売命トドロキヒメノミコト神社にある後鳥羽天皇行宮址の碑。南海高野線(汐見橋線)の線路のすぐ東にあって、電車が写っている。


右写真、大和川。南海電車の鉄橋を電車が渡っていく。
遠里小野オリオノ橋で大和川を越え、堺市(写真の右手)に入る。

南海の浅香山駅の踏切を渡り、大阪少年鑑別所の塀沿いを走る。




左写真、境王子跡の碑を見て、静かな住宅街の道を南下する。



右写真、方違ホウチガイ神社の境内の中。左正面が本殿。
南の小さな鳥居から出て、反正天皇陵、続いて三国ヶ丘高校の東の道を南下して、仁徳天皇陵の北西に出る。



仁徳天皇陵の西の濠沿いの道を走るが、前方後円墳のイメージは湧いてこない。大き過ぎるのだ。
航空写真を見てみるには、
1) 大阪府堺市堺区大仙町 周辺の地図をクリックして下さい。すると、仁徳天皇陵を含む「livedoorのマップ」が表示されます。
2)左上の”航空写真”をクリックすると、航空写真の表示に変わります。
このマップを見ると、大仙公園の回りは、御陵や古墳に囲まれていることがよく分かる。

御陵通を西進して、阪神高速道路堺線の下をくぐり、山之口橋まで走る。


左写真、山之口橋。
この橋は、環濠跡の土居川に架かっている。


右写真、橋に付いてるタイル絵。熊野詣のシーンが描かれている。






左写真、南宗寺にチョット寄った。

右写真、ココから入って南宗寺を見学したかったが、割愛。

この日帰宅して日経の夕刊を見ると、「千利休の高弟・山上宗二の供養塔、堺に完成」との見出で、秀吉に耳鼻をそがれて惨殺された山上宗二の供養塔が南宗寺天慶院に建てられたと出ていた。






左写真、石津神社
日本最古のえびす社とのこと。




16時前にJR津久野駅に着いた。




朝日放送HPの歴史街道(大阪の熊野古道)はなかなかいい。