チョットずつ熊野古道 no.4


No.4 JR鳳〜南海・貝塚 07年4月28日   20km



左写真、大鳥大社の鳥居。9:40
大鳥大社は全国の大鳥神社の本社で、和泉国の一宮。


右写真、社務所周りを巫女さんが丁寧に掃いていた。
本殿の近くでは男の神官がやゝだだくさに掃いていた。






左写真、拝殿。



右写真、拝殿の奥の本殿。
本殿は内部が前後2室に別れており、大鳥造と呼ばれる古い形式らしい。






左写真、『 かいこぞよ 帰りはてなば飛びかけり 育み立てよ大鳥の神 』
平清盛が平治元年(1159)、熊野参詣の途中、立ち寄り詠んだ和歌。
清盛の歌が残っているのはコレ以外になく、貴重な一首とのこと。
石碑の筆は、富岡鉄斎。
(鉄斎は明治10年に大鳥大社の大宮司になっているらしい。)


右写真、等乃伎トノキ神社。




左写真、等乃伎神社の本殿前の松に赤い花が咲いていた。



右写真、等乃伎神社の西に富木の地車の車庫があり、その前に数十人の男衆が集まっていた。地車ダンジリのコマを取り替えるのかも知れない。
富木の地車の写真はコチラ






左写真、太町タイチョウでは、青年団の若手が子供の日のために地車をドレスアップしていた。太町の地車の写真はコチラ

日光東照宮の造営時に岸和田藩からも宮大工約100人が動員され、その後、その宮大工の技が地車を飾る彫物に活かされたらしい。
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-09-13/01.htm


右写真、なかなか風情のある道が続く。





左写真、聖神社の一之鳥居。画面左の道を走ってきた。
提灯は宮本町の地車保存会のデモンストレーション。
宮本町の地車の写真はコチラ。平成16年の新調で、大工:池内幸一、彫師:野原湛水。平成19年に彫物も完成するらしい。

この鳥居をくぐって丘の上に上がっていくと、聖神社に出る。


右写真、聖神社は丘の上に広がっていた。正面は本殿。




左写真、聖神社の本殿は、国指定重要文化財。
この本殿の中に、「祝 宮本町 新調地車 入魂式 5月3日午前6時30分執行」と書かれた半紙が貼ってあった。彫物もすべて完成したのかな。



右写真、鳥居まで戻って、路地を入ると、篠田王子跡の碑。






左写真、小栗地蔵。



右写真、八坂神社。







左写真、放光池公園の向かいにあった平松王子跡碑。



右写真、陸上自衛隊信太山駐屯地の正門。
ココに駐屯する第37普通科連隊は、昔でいう歩兵部隊らしい。
大阪府には他に八尾にも駐屯地がある。





左写真、昔の家並みが残っている。



右写真、小栗街道の石標。
左手は熊野古道の案内板で、和泉市内産の間伐材で作られているそうな。小さいが、和泉市府中町5丁目などの表示もあり、親切だ。
堺市の「熊野かいどう」とだけ書かれた邪魔になるほど大きな案内石標より、よっぽど洒落ている。


昼食は泉井上神社の北西300m(和泉府中駅の北東すぐ)のちりめん亭で中華そばとチャーシュー丼のセット。美味かった。


左写真、泉井上神社の本殿。国指定重要文化財。


右写真、本殿の柵の中に、「和泉清水」の石柱があった。
地元のオッちゃんの話によると、子供の頃には十分な湧水があり、泳いでいたとのこと。今でも夏には水が湧くらしい。
案内板に、豊臣秀吉がこの和泉清水の水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたと書いてあった。




【和泉memo】
和泉市HPによると、「和泉」という表記は、もとは「泉」一字の地名だったが、和銅六年(713年)風土記の編纂を命じたのと同時に、諸国の国郡郷名はよき字(文字として美しくよい意味の字)をつけるようにという命が出された(「続日本紀」)。
これを受けて、国郡里名は二字の嘉名をつけることが命じられた(「延喜民部式」)。
元来、国郡名などは一字や三字のものもあって不統一だったのを、これによって統一しようというのが意図だったと思われる。
この時に、たとえば木は紀伊になったように、泉も和泉というようになったと推定されている。このような意味のない飾りの文字を「雅字ガジ」と呼ぶ。


左写真、井ノ口王子跡の碑。「是より南西50米」とあった。
子宝地蔵尊の祠が横に建っている。


右写真、柳田橋。






左写真、柳田橋から槇尾川を(下流方向に)写す。
水面まで続くなだらかな階段状の護岸に、川を渡れる飛石がいくつも配置されていて、まさに親水河川の見本のようで、好ましい。


右写真、小栗橋。







東に1kmほど上って、久米田寺に向かった。
左写真、久米田寺桜門。正面に金堂。
久米田寺は行基によって天平10年(738年)に開かれた名刹。


右写真、多宝塔。
400年ぶりに再建され、平成15年に落慶法要が行われた。





左写真、観音堂。
行基自刻の千手観世音が安置されているそうな。


右写真、立派な塔頭の明王院の門。
門前の左の石には「大聖不動明王」、右の石には「高野素十の句碑あり」とあった。





左写真、中央の黒い石が高野素十の句碑。
「旅人に久米田の池も日短か 素十」
後の朱は多宝塔。


右写真、明王院の敷地は広い。
大きな赤い躑躅が燃えていた。




左写真、久米田池
大阪府内最大の満水面積の溜め池で、行基による築造。


右写真、積川ツガワ神社の鳥居。
白河上皇が熊野へ行幸の途、熊野街道から積川神社を遥拝し、芝草を積んで舞台をしつらえ、舞楽を奏された時、鳥居に掲げられた扁額の筆磧が拙いのをご覧になり、
親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八字を大書され、これに代えられたそうな。
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-06-28/01.htm



左写真、半田一里塚。
かつて熊野街道沿いには一里塚があったが、明治時代にほとんど取り壊されてしまった。そうした中で貝塚市の半田一里塚は、ほぼ完全な形で残っている数少ない一里塚である。
一里塚は道の両側に一里(約4km)ごとに塚を築き、その上に木を植えて旅人の目安とした。
半田の一里塚は熊野街道を往来した旅人のために設けられたものと見られ、高さ約2m、周囲約30mで樹木に覆われている。
以前は道路の向かい側にも塚があったが今はない。http://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-06-28/01.htm


右写真、水間鉄道の踏切。15:15
今回の旅はココで切り上げ、水間鉄道の線路に平行に走り、南海・貝塚駅から電車に乗った。