チョットずつ熊野古道 no.14


No.14 水呑王子 〜 本宮大社  2010年12月5日(日)
 km


天王寺 8:00発の特急くろしお1号で紀伊田辺に9:59到着し、10:25発の明光バスに乗車。ココまでは前回と同じだ。
バスを終点の栗栖川で降りて、11:15発の小型の龍神バスに乗り換え、11:28 ”古道あるきの里近露”で下車。
新たな観光拠点「古道歩きの里 ちかつゆ」なるものが今年3月にオープンしたので、ココで昼飯を食い、本宮大社行きの龍神バスを待つことにした。

ただし、12月1日から冬季ダイヤになっていて、予定より1時間多くココで待つことになったので、近露を散策した。

左写真、日置川に架かる津呂大橋を渡って、なかへち美術館に向かった。
しかし、12月に入るとシーズンオフで休館中であった。
(写っている大きな荷物は明日の熊野川下りのカヌーである。)

近露王子に参った後、古道を東に歩く。

右写真、 ”野長瀬晩花生誕の地”と書かれている。







左写真、近露伝馬所跡。(丹田家)



右写真、前回は雨の中だった野長瀬一族の墓地を再び訪ねた。
しかし、お墓は雨天の方が似合っていた。








左写真、池。



右写真、沼。









左写真、中辺路美術館前の植木・盆栽・民芸品店で時間を潰し、バスを待った。
藪柑子の赤い実が小春日に輝いていた。(¥500−)

中辺路美術館前13:29発のバスに乗って本宮大社前14:19着。


まず、本宮大社・社務所で宿坊・瑞鳳殿のチェックインを済ませ、
昨日頼んであったタクシーで水呑王子に向かった。




    右写真、水呑王子跡。
                                       14:55スタート。








左写真、古道の山道を急ぐ。



右写真、集落の出て、舗装道路を進む。
撮影ポイント辺りに、「大きな音を出して御迷惑かけております。猿よけの音です。」の立て札があった。








左写真、何が干してあるのだろう。
小さめで分厚く切られた藷かも知れないが、聞く時間がなかった。



右写真、茶畑がきれいだ。








左写真、柿の木に登って柿を取っていた。
果無山脈が絶景だろうな。


右写真、菊水井戸。
参詣者の喉を潤してきた井戸らしい。







果無山脈
熊野古道中辺路の山道の北側に連なっている山脈。
笠塔山より東に和田ノ森、安堵山、冷水山を経て、東端で熊野川まで東西18kmに渡って列なる。古くは大和国と紀伊国の国境であった。
果無山脈の山々は、最高地点でも1000mをわずかに超える程度であるが、果無という名が生じたのは、江戸時代の地誌『日本輿地通誌』に「谷幽かにして嶺遠し、
因りて無果という」と説かれたからであると言われている。
ただ、地元の民俗伝承は果無の名を地理的な特徴ではなく、この地方に伝わる一本だたらの怪異譚によるものとしている。
それによれば、果無山脈にはある怪物が棲んでいた。
その怪物はハテ(年末20日過ぎ)になると現れ、旅人を喰ったことから、峠越えをする者がなくなった(ナシ)という。ここからハテナシの名がついたという。
果無山脈の尾根道は山頂平坦面が直線的に続き、比較的歩行が容易であったことから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)および日高郡からの往来があったという。
この道を龍神街道・果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられ、
近代になっても大正時代頃までは生活道として利用され続けた。
また、果無山脈東端の鞍部である果無峠は、熊野参詣道小辺路の一部であるとともに、十津川(奈良県吉野郡)と本宮を結ぶ生活の道であった。
1921年(大正10年)に新宮と折立を結ぶプロペラ船が就航してからは、通行人が減ってゆき、昭和30年代の電源開発とともに五條からの国道168号線が本宮町まで開通したことで、
果無峠は生活道としての役割を終えた。 (from ウィキペディア



左写真、遠景に果無山脈。手前の富士山のような山は百前森山ヒャクゼンモリサン(782.7m)。

右写真、伏拝王子社跡の石祠。(手前)
ココまで来て、初めて遠くに熊野本宮大社(現在の大斎原オオユノハラ)が見え、人々がその有難さに伏し拝んだらしい。
奥に写っているのは和泉式部供養塔。
和泉式部供養塔は、笠塔婆の上に宝筺印塔の塔身と蓋を積み上げたもので、延応元年(1239)8月の銘があり、
三百町卒塔婆の一つではないかともいわれているらしい。






左写真、和泉式部供養塔。
なんでも、和泉式部が熊野参詣の折、この地で月の障りとなり参詣できず、本宮大社を伏し拝み
「晴れやらぬ身の浮き雲のたなびきて月の障りとなるぞかなしき」と詠んだところ、
その夜熊野の神が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」とのお告げがあり、喜んで参詣したと風塵集巻20に記されている。
熊野権現が心広く受け入れる神であることを、聖たちが諸国に広めた話らしい。

右写真、伏拝王子社前を少し登る。







左写真、果無山脈が一望できた。


古道に戻って山道を下る。

右写真、右手の山が夕陽を浴びて、枯れススキも輝いていた。








左写真、気持ちのいい林間の道だ。


十津川温泉方面からの熊野古道(小辺路)の上に架かる吊橋を渡り、三軒茶屋跡の休憩所を過ぎると、

右写真、:九鬼ヶ口関所跡。
昔、九鬼に在った関所を模している。







関所手前の石の道標には、「右 かうや 十九り、左きみい寺 三十一り」と彫られている。

左写真、道標の示す高野への道。


「ちょっと寄り道」の案内にしたがって見晴らし台地へ寄る。

右写真、展望台への途中、北側の景。






左写真、展望台のサキッチョから大斎原オオユノハラの大鳥居が見える。(画面中央)



右写真、祓戸王子跡。
往時、ここで最後のお払いをして大斎原へ向かったらしい。








左写真、熊野本宮の北口鳥居に到着。


暗闇迫る中、熊野本宮大社にお参りした。


右写真、まずは、黎明殿拝殿。

17時を回ったところだったが、
続いて、神門をくぐって、



正面の第三殿(證証殿):家都美御子大神(主祭神) <阿弥陀如来>、
続いて、第一殿(西御前):熊野牟須美大神・事解之男神 <千手観音> 、第二殿(中御前):速玉之男神 <薬師如来>
そして、第四殿(若宮):天照大神 <十一面観音>
を参拝。    (祭神、<>内の本地仏は、熊野本宮大社HPより転載。)

社務所の方々も17時で店仕舞いのご様子だった。

石段を下りて、宿坊・瑞鳳殿に泊まった。宿泊客は1人だった。