チョットずつ熊野古道 no.16


No.16 熊野速玉大社〜JR三輪崎、お燈祭  2011年2月6日(日) 7km 


                                                              from 和歌山県フォト博物館

先回の最後に出会ってお世話になったT氏に、2月6日のお燈祭に是非来るように誘われていた。
幸い、天気もよく暖かい予報だったので、熊野古道の最後の旅を兼ねて出掛けることにした。
以下に、2月6日の写真の順番に記録する。

なお、「お燈祭 オトウマツリ」は、和歌山県フォト博物館によると、
神倉カミクラ山に降り立った神を人々が迎えた「神迎え」と、神が山を下りて熊野速玉大社へ鎮座するまでの「再臨」とを再現した神事らしい。
敏達ビタツ天皇の頃(570年頃)に初めて行われたとの記録があるが、その由来は明らかではない。
毎年2月6日夕刻、荒縄を胴に巻いた白装束の上り子アガリコ・ノボリコ千数百人が松明を手に、熊野速玉大社から阿須賀アスカ神社へ詣でて、神倉山に集まる。
午後7時頃、祝詞奏上の後、迎火松明に点火され、上り子たちの松明に順々に火が移される。
玉垣内で待機した上り子たち千数百本の松明が天を焦がすばかりになると、門が開かれ538段の石段を我先にと駆け降りる。
火の海と化した神倉山から龍が舞い降りる如き眺めは壮観で、新宮節には「お燈まつりは男のまつり山は火の滝、下り竜」と唄われている。
なお、この祭は未だに女人禁制で、写真を撮るだけでも女性は入れない。


左写真、新宮駅前のお燈祭の像。 11:58
(天王寺8:00発 特急くろしお1号に乗車)

T氏に神倉神社に案内してもらい、祭見物のアドバイス受けた。
氏は祭の準備をし山に上るとのこと。
T氏と別れた後、まずは、勝丸の刺身定食で腹ごしらえをし、ホテルサンシャインにチェックイン。
再び、神倉神社に向かう。


右写真、神倉神社入口に架かる太鼓橋。




左写真、朱の大鳥居の上は急な石段538段が続く。
この石段は鎌倉積みといい、源頼朝が寄進したと伝えられる。左手には消防隊が取り付けたばかりのホースが写っている。

右写真、山上の鳥居。
この木戸の扉の中に松明に火を灯した上がり子が閉じこめられて、20時頃に介釈が木戸を開けると同時に、一気に石段を駆け下りるのだ。
冒頭のお燈祭の写真はこの辺りのカメラマン席から写されたようだ。








左写真、天辺の御神体・ゴトビキ岩。

(1ヶ月以上雨が降らず乾燥しきっているので、消防隊がゴトビキ岩の裏山に念入りに放水していた。)

右写真、下界を見下ろす。
正面に熊野川河口が写っている。

参拝の後、山を下る。






左写真、中ノ地蔵堂と火神社の祠の右手から女坂が下っていた。



右写真、この急な石段を上がり子は松明を持って駆け下りるのだ。








【神倉神社】 カミクラジンジャ
熊野の神々が降臨した巨岩のご神体「ゴトビキ岩」のある神社。
「ゴトビキ(ひきがえる)岩」は、新宮市の西、神倉山中腹の巨大な磐の上に乗る岩で、太平洋を見据えていて、市内のどこからでも見える。
神倉神社は熊野速玉大社の境外摂社になっているが、その歴史は古く、天照大神と高倉下命タカクラジノミコトを祀る。
源頼朝が寄進したという538段の急な石段を上ると、ゴトビキ岩の下に小さな社がある。
今は無人だが、かつては修験者たちの行場で、立派な本殿があり、途中には山伏寺もあったという。 (山伏寺:山伏が入峰修行を実践する寺 )
(摂社:その神社の敷地内にある祭神と深い関係を持つ神々(配偶神、血縁関係を持つ神など)を祀った小規模な神社 )

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この後、「熊野古道」のルートを走った。

まずは、
左写真、熊野速玉大社に詣でる。



右写真、立派な本殿である。







【熊野速玉大社】
熊野権現降臨の地・神倉山のゴトビキ岩をご神体と仰ぐ原始信仰の神倉神社を元宮とし、現在の熊野速玉大社の地に速玉神夫須美神を「両所権現」として祀る。
社殿が創建されたのは景行天皇58年(西暦128)とのこと。
この地に新しく宮を遷したので、新宮ニイミヤとも呼ばれ、新宮市の語源になっている。


ちょっと、新宮城跡に寄り道。
左写真、公園として整備されている。



右写真、ココも石段が続く。








左写真、石積みが残っている。
左手に熊野川とJR鉄橋が写っている。


右写真、石垣の上から見た熊野川上流側。
先回、この川を下ってきたのだ。







【新宮城】
熊野川河口の高台にあり、丹鶴城とも呼ばれ、源頼朝の叔父にあたる新宮十郎行家が平安時代末期に築城したのが起源らしい。
戦国時代末期の紀州攻めの後、豊臣秀吉の甥の浅野幸長の一族、浅野左近大夫によって初めて本格的な城の建設が行なわれたが、築城の途中で幕府から「一国一城令」が出されたため、元和元年(1615)に壊された。
その2年後に再建が認められ、元和4年(1618)には紀州徳川家の附家老、水野重仲が新宮領主となり、天守閣を中心とした城を15年かけて完成させたとのこと。
なお、水野家は以降、250年間にわたって紀州藩江戸家老を務めるとともに、新宮領主として君臨したが、新宮領は、明治維新の時に新宮県となり、その後、和歌山県に帰属した。
新宮城は石垣を残し遺構はほとんど壊された。


左写真、新宮城を降りたところで、上がり子達に初めて出会った。  14:58
多分、速玉大社から阿須賀アスカ神社に向かう途中だろう。



右写真、舗装に熊野古道の案内標識が埋め込まれていた。(この後、数ヶ所で見た。)








左写真、阿須賀神社。



右写真、やがて、先ほどの上がり子が参拝にやってきて、順に背中に朱印を押してもらい、甘酒を振る舞われていた。








【阿須賀神社】 アスカジンジャ
熊野川河口にほど近く位置し、背後にある円錐形の山、蓬莱山をご神体とした自然崇拝が起源と考えられ、一説には熊野で最古の神社とも言われるらしい。
境内からは弥生時代の竪穴式住居や、神仏習合の時代に祀られていた御正体ミショウタイ(懸け仏)が発掘され、歴史民俗資料館で一般公開されている。


左写真、古道の結構細い道を少し曲がりながらも南下し、第一王子橋で市田川を渡る。



右写真、浜王子跡の王子神社。
(写っている女の子にせがまれて、自転車の荷台に乗せて少し走る羽目になる。)








左写真、線路脇の高架道路の下を潜ろうとしたが、工事中で通れなかった。
画面中央に紀勢本線の特急が写っている。
アロエの赤い花が咲いていた。


右写真、王子ヶ浜に出た。   15:46

熊野古道の正式なルートは砂浜を歩くらしいが、時間がなく自転車でもあるので、防潮堤の内側の道を走ることにした。






左写真、コンクリート道はやがて土の道になる。



右写真、線路脇の道を走る。









左写真、道は前方を横切る小さな川で行き止まりだ。

熊野古道のルートは王子ヶ浜から歩いてきて、この(水はほとんど流れていない)川を少し上り、右手にある階段を上がるらしい。

右写真、この川底を歩いて、JR線路を潜るのだ。

私は自転車を担いで線路を横断した。







左写真、「熊野参詣道・高野坂コウヤザカ」の案内板があり、ここから山道に入る。



右写真、高野坂の取りかかり。  16:11









左写真、坂の途中からの展望。
王子ヶ浜を見下ろす。      16:15


右写真、御手洗ミタライ板碑(手前)、孫八マゴハチ地蔵(中央)。









左写真、五輪塔の案内が出ていたので、道を左に分け入ると、崖の上に五輪塔が建っていた。由緒は不明。



右写真、金光コンコウ稲荷神社前で海が見えてきた。いよいよ下りだ。     16:37









左写真、石畳の坂道を下る。



右写真、水仙が見事に咲いて迎えてくれた。



JRの踏切を越えて、海に出る。





左写真、熊野灘。(高野坂方面)



右写真、三輪崎方面に砂浜が続く。
波は穏やかだった。








左写真、JR三輪崎駅前着。  16:51

この後、国道42号線に出て、新宮に戻る。
昼食と同じ勝丸で、”くじら料理”を頂く。
(尾身、テッパ、ホネハギ、ウデモン、オバキ)
三岳のお湯割りを4,5杯飲む。
”イルカの刺身”も頂く。

ホテルに戻り、自転車を置いて、暫し休憩。

(本日の自転車+徒歩のGPS移動距離は32km。)





【お燈祭】

19:50にホテルを出て、西に向かう。(新宮高校前交差点で42号線を渡る。)

右写真、神倉山に松明の火が見える。    19:58

神倉神社入口の太鼓橋の上で見物する。
終盤になってから橋を渡り、境内に入る。



左写真、最後の方の上がり子と松明。
子供もいる。


右写真、鳥居前の石段を下りてくるほぼ最後尾の上がり子。











右は新宮の航空写真。山と川と海の街だ。      (from 新宮市観光協会HP
熊野川沿いにこんもり茂っているのは新宮城。
その右手は阿須賀神社と蓬莱山。
高野坂が新宮の南の出口を塞いでいる。



【参考文献】
和歌山観光情報HP http://www.wakayama-kanko.or.jp/kataribe/03/detail_06.html