伊勢へ 3         伊勢本街道

                    (大坂・玉造〜奈良・猿沢池)

クラブ・ザ・ファルト自転車部会の伊勢本街道ツアーの最終回・暗峠越えである。
1)月日:2011年3月27日(日)
2)集合:大阪JR玉造駅改札口8:30集合(9:00出発)
3)参加者:奥野(案内人)、中村(幹事)、西野、真賀利、松田、吉田、計6名
4)コース:玉造神社(下のmap左端のflag)〜深江稲荷神社〜長永寺(慈雲)〜御厨天神社〜松原宿〜枚岡公園(下のmap真ん中のflag)暗峠〜追分(梅林)〜尼ケ辻〜猿沢池(下のmap右端のflag)







江戸時代の終わり頃、お伊勢参りが流行した頃の玉造は、大坂以西の伊勢参り出発地であり、えらい賑わっていたらしい。



左写真、玉造稲荷神社の本殿。 8:40



右写真、伊勢参り起点の石碑も立てられていた。170kmとのこと。





左写真、我々もココで旅の安全を祈願した。



右写真、出発前の記念写真(by Nakamura)









左写真、神社の参道横の小さな畑に玉造黒門越瓜ゆかりの地の瓜形の石碑。
大坂城の玉造門が黒塗りだったので黒門と呼ばれ、江戸時代に付近で作られた瓜を玉造黒門越瓜シロウリと言う。
糟漬けにして浪花名産の一つだった。



右写真、二軒茶屋跡をスタート。 8:52







左写真、妙法寺の契沖史蹟の指定案内
国学の祖・契沖が、11歳のとき得度した寺で、その後、住職をつとめた。代表作「万葉代匠記マンヨウダイショウキ」はここで執筆した。
それに対する徳川光圀からの謝礼は、全て寺の修復と信徒の救済にあてられたという。




右写真、妙法寺の隣にその鎮守社の熊野大神宮がある。旧大今里村の氏神さんだ。






左写真、熊野大神宮の塀の向こうに妙法寺が見えている。



右写真、熊野大神宮は本殿もなかなか古くて立派だ。









左写真、笠石を載せた道標。



右写真、道標の説明。
文化3年(1806)に20m先の暗越奈良街道と北八尾街道との分岐点に立てられもので、道路拡幅に伴い移設されたとのこと。








左写真、深江稲荷神社
朱くないお稲荷さんだ。
古く、和銅年間(8世紀前期)の創建らしい。



右写真、拝殿にも狐の姿はない。
(写真の右手の方に、お狐さんがおられたらしい。)





深江稲荷神社HPによると、
昔、深江は良質の菅草が豊に自生する浪速の一島でしたが、第十一代 垂仁天皇の御代に、大和の笠縫邑より笠縫部カサヌイベが移住し、代々菅笠を作り、笠縫島と呼ぶようになったそうです。
以後、歴代天皇即位、大嘗祭の時は、天皇にさしかける御菅蓋(菅笠のこと)をはじめ、伊勢神宮式年遷宮に用いられる菅御笠、菅御翳サシハ等、菅御料は、すべて深江から献納しています。

深江郷土資料館外観深江稲荷神社の隣に”深江菅田”が少しだけ復元されていて、深江郷土資料館に菅細工等も展示説明されていた。

左写真、菅田。


右写真、深江郷土資料館



東進し、(奈良街道を少し外れるが)、JRおおさか東線沿いに南下し、長栄寺を訪ねた。





左写真、長栄寺の境内に移築、保存されている雙龍庵ソウリュウアン。
慈雲が宝暦8年(1758)生駒山中額田谷の長尾の滝上流に隠棲、修行のために建てた庵の遺構。
ココで慈雲は千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著したらしい。



右写真、長栄寺本堂に向かう庭。







左写真、雙龍庵の前に大きな葉っぱの竹が植わっていた。



道に戻り、東進。


右写真、御厨ミクリヤの行者堂。






左写真、御厨神社(天神社)。
この地の氏神さん。



右写真、境内には東大阪市の天然記念物指定の楠がある。








左写真、八劔ヤツルギ神社




右写真、境内に街道の古い道標が3本移されている。
真ん中の道標は「右」と「山」の間に瓢箪の絵が刻まれていて、”右 瓢箪山”と読むらしい。







左写真、おかげ燈籠。
台座の部分に「おけげ」と横書きで彫られている。


花園ラグビー場を右手に見て、暗越奈良街道唯一の宿場町・松原宿跡に入る。

右写真、松原宿跡に残っていた道標。


恩智川を渡り、外環状線を越える。
東高野街道を渡り、近鉄の線路を越える。



左写真、枚岡公園に入り、公園事務所の手前まで上る。  11:10



売店手前のベンチで昼食休憩。



右写真、阪神高速道路が西へ延びていく先に超高層ビルが林立している。





左写真、リスタート前。



右写真、公園の道を南下して、椋ケ根橋。
(橋を渡れば、枚岡神社へ行き着く。)


この橋の前の道が国道308号線・暗越奈良街道である。





左写真、酷道308号線に取り掛かる



右写真、端から漕ぎ上る気はない。









左写真、古墳石室らしい。
この辺りには古墳が多いとのこと。



右写真、芭蕉句碑
『 菊の香に くらがりのぼる 節句かな 』
芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」死の1ヶ月ほど前の元禄7年(1694)重陽の節句(9月9日)に暗峠を越えて、奈良から難波に向かった。






左写真、 国道308号線の勾配はきつい。
写真の句碑は明治22年に建てられたもの。
芭蕉の百年遠忌記念に寛政11年(1794)に暗峠に建てられた句碑は、大正12年に土砂崩れで不明になったが、その後出てきて、今は麓の勧成院にあるそうな。




右写真、観音寺の標石。







左写真、30%の勾配が続く。押し登る。



右写真、?









左写真、「大社の瀧 禊行場」の石碑。




右写真、谷筋に降りる路に「観音寺境内の案内」が出ていた。








左写真、額田橋の左手の”不動明王”。




右写真、来た道を振り返ると、大阪の市街が見える。








左写真、右手には、いろいろな「大神」様が祀られていた。




右写真、慈光寺へ繋がる分岐路で休憩。
降りてきた二人ずれのハイカーと話す。







左写真、弘法の水。
大勢の旅人がこの弘法の水で一息ついて峠を越えて奈良へ向かったのだ。



右写真、右端の笠塔婆(阿弥陀さんの下に「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれている)は鎌倉中期弘安7年(1284)。笠は近年、載せられたらしい。








左写真、やっと酷道308号線の勾配は緩やかになった。



右写真、前方右手には梅の木々。
峠は近い。








左写真、「おいせまいり」と朱字で書かれた札がぶら下げられている。(伊勢本街道保存会)



右写真、来た道を振り返る。
峠近くには家々が軒を連ねている。








左写真、この辺りが天辺だ。(標高455m)
駐輪、休憩。


右写真、右手の建物は昔は旅館だった。
前方右手に「峠の茶屋」がある。

峠に残っている石畳は郡山藩が敷いたもの。

なお、暗峠クラガリトウゲは、江戸時代には、椋ヶ嶺クラガネ峠とも呼ばれていた。





左写真、この先は奈良県生駒市。 13:00
前方を横切る道路は信貴生駒スカイライン。


右写真、府県境を越えて大阪府東大阪市側を写す。




いよいよ乗車し、峠を越え、快適に飛ばす。




左写真、西畑町の石仏と万葉歌碑。

画面右下の歌碑(万葉集巻20−4380):
『難波門ナニハトを榜コぎ出て見れば神カミさぶる生駒高嶺に雲そたなびく』 下野国梁田郡ヤナタノコホリ 上丁・大田部三成ミナリの作。



右写真、暗峠を振り返って写す。





【防人歌】
 万葉集巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として、東国から徴集された防人の詠んだ歌84首が収録されている。
これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の歌を、防人を率いてきた各国の部領使コトリヅカイに命じて記録、上進させたらしい。
拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられが、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで記されている。   (from wikipedia


この後は、石佛寺前を走り、竜田川を渡り、近鉄生駒線を横切って、ニュータウンの道路を少し上る。

左写真、歓喜乃湯で暫し休憩。



右写真、生駒の山並み、暗峠が見渡せる。








左写真、ココに「矢田丘陵遊歩道(大和郡山市)」の案内標識があった。生駒市、奈良市大和郡山市の3つの市の境界付近なのだ。



右写真、もうすぐ峠だ。結構きつい。
暗峠を大峠と すれば榁木峠は小峠だ。







左写真、榁木ムロノキ峠。



右写真、大きなお地蔵さまだ。









左写真、峠の古い家に梅の花がよく似合っていた。



右写真、手前の家の庭には椿の大木があり、今、蕾をいっぱいに付けていた。
見晴らしも抜群の庭だ。








追分神社の石鳥居を左手に見て、坂道を一気に下る。

左写真、 追分本陣(村井住宅)前で駐輪。
大和郡山藩が参勤交代の休憩場所として建設したもので、茅葺きと瓦を組み合わせた屋根が特徴の大和棟形式。



右写真、大和郡山との分岐の追分で、道標が立っている。






左写真、追分の梅林
まだ少し梅の花が残っていたが、大分荒れている感じ。



右写真、第2阪奈道路で分断されている。



第2阪奈道路を潜って、東へ。




左写真、富雄川を渡る。
ココの梅はまだ、きれいに咲いていてくれた。



右写真、砂茶屋の間男地蔵さま。








左写真、宝来山古墳。(垂仁天皇陵。)
田道間守墓が真ん中に小さく写っている。



右写真、「唐招提寺」の道標。








左写真、尼ヶ辻地蔵石仏
鎌倉時代の作で、「縁切り地蔵」と呼ばれている。
尼寺に入る女性がこの地蔵の前で俗生と縁を切ったらしい。



右写真、猿沢池に無事到着。  15:42







左写真、皆さん少し疲れた感じですネ。



解散。

右写真、私はJR奈良駅からJR一本で帰ってきた。

木津駅で学研都市線への乗換時間が30分ほどあったので、駅のホームで高粱酒の小瓶を取り出し味わった。56度あるので気付薬になった。





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