伊勢へ 2 奈良を下る
奈良サイクリング(木津〜藤原京)
−− ザ・ファルト2010年1月例会 −−
2010年02月07日(日)、雨天で1週間延びたクラブ・ザ・ファルト1月例会(自転車版)「木津〜飛鳥
新春サイクリング」が、奥野浩司幹事の主宰で下記要領のもとに実施された。
1)月日: 2010年02月07日(日)
2)集合場所: JR木津駅前 集合時間 10:00
3)コース: 木津〜(奈良坂)〜般若寺〜転害門〜興福寺(奈良本街道)〜奈良町〜帯解寺〜櫟本〜天理(昼食)〜市座神社〜藤の棚〜大和神社〜五智堂〜黒塚古墳〜
纏向遺跡調査現地〜箸墓古墳〜大神神社鳥居〜飛鳥へ 約40キロ
4)持ち物: 自転車、飲料(走行中に購入可)、弁当不要(天理の沖縄料理・約¥1,000を予定)
5)参加者: 奥野、吉田、奥田、真賀里、西野
【奈良坂】
JR木津駅前で自転車を組立て、10:00にスタート。
奥野リーダーの先導で、緩やかだが延々と続く奈良坂を登り切る。
ココは京都から奈良へ入る交通の要衝で、『お伊勢参り』の旅人も、この坂を上ったはず。
(この道は江戸時代には、奈良坂越えあるいは般若寺越えと呼ばれていたらしい。)
まずは、奈良豆比古ナラヅヒコ神社に立ち寄る。
左写真、 神社の舞台と奥に朱い社殿。
右写真、本殿裏の大きな凹地、擂り鉢状の谷に立っている樹齢千年の大樟。ココは奈良の都近くの風葬の地だった。
今日は春の好天気だった所為か、前回ほどビビリはしなかった。
【道標】
奈良豆比古ナラヅヒコ神社の前に1847年(弘化4丁未年)に建てられた古い道標が建っている。
東面に「右 京うぢ」「左 かすが大ぶつ道」、南面に「右 い可゛いせ」「すぐ 京うぢ道」、北面に「すぐ かすが大ぶつ」「左 いがいせ道」と刻まれている。
ココは江戸時代には、京都・宇治へ向かう街道と伊賀・伊勢に向かう街道が交差する交通の要衝だった。
その後、快適に南下し、般若寺の楼門、続いて十三重石宝塔を左に見て、奈良少年刑務所の煉瓦造を右手に垣間見て走った。
左写真、北山十八間戸。
右写真、東大寺転害門。
興福寺を右手に見て、猿沢池の袂で畔で、東久保勝彦氏と落ち合った。
(東久保氏は琵琶湖一周ウォーキングの主宰者で随分お世話になった。)
ココから東久保氏に「奈良町」を40分ほど案内していただいた。
【奈良町散策】
【奈良町】
奈良町とはこの地の伝統建築群地域の通称で、「奈良町」という行政地名はない。
ココには元興寺が広大な寺領を有していたが、鎌倉時代には、その伽藍の殆どが消失してしまい、境内地には町並みが形成され、奈良町(元興寺旧境内)に様々な産業(筆、墨、蚊帳、晒、布団、刀、酒、醤油等)が発展していった。
江戸時代には奈良は幕府の直轄地となり、奈良奉行が置かれ、その指導のもと、猿沢池を中心にその南・北に商工業が拡って行った。
今も狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並んでいる。ほぼ全域が元興寺の旧境内である。
【真言律宗 元興寺ガンゴウジ】
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)である。
猿沢池をはさんで北の興福寺、南の元興寺と平城京左京(外京)の台地に広大な寺地と伽藍を有した。
平安遷都後も、この外京と東大寺、春日社一帯は南都の中心地であった。
元興寺は、藤原、奈良時代は崇佛派の蘇我氏による仏教政策や、朝廷(僧綱)の管理下にある三宝常住の官寺だったが、平安時代になると、律令制度の崩壊によって、
官大寺は無くなり、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれた。
更に鎌倉時代になると、元興寺は伽藍が解体し、堂塔が分散してしまった。 (from 元興寺HP)
左右写真、墨の老舗・古梅園。
奈良墨は、この地の伝統産業である。
左写真、菊岡漢方薬局。
右写真、正面の石仏の背は菊岡漢方薬局。
画面右手の格子の家もいい感じ。
左写真、今西家書院の長屋門。
右写真、今西家書院の玄関前。
興福寺大乗院家の坊官を務めた福智院氏の居宅を大正13年に今西家が譲り受けた。
戦前に国宝指定されたが、江戸時代に一部改造が行われているという理由で、戦後に重要文化財となった。
銀閣寺の東求堂と同じく、室町中期の書院造りの遺構を残していると言われている。
左写真、正面奥に元興寺小塔院跡。
右写真、元興寺小塔院跡の路地の右手の豆腐料理屋さん。(豆腐庵 こんどう)
【身代り猿】
町家の軒先に吊されている赤いぬいぐるみは、「庚申コウシンさん」のお使いの申を型どったお守りの「身代り申」。
右写真、東塔跡のある寺院の門。掲額は「元興寺」となっていて、元興寺の寺号を引き継いでいる。
創建当時の元興寺の遺構は五重塔跡のみとなっており、通称元興寺(塔跡)と呼ばれているらしい。
左写真、元興寺東塔跡。
右写真、東塔跡の奥にある寺院。
左写真、大きな石燈籠が2基、道の西側に並んでいた。
東久保氏によると、燈籠はココ、上ツ道の東西に立っていたもので、奈良町の終わりを示すらしい。
東久保氏による奈良町案内もココで終わり、我々5名は伊勢街道(上ツ道)を南下し、まずは天理を目指す。
なお、石燈籠には、「金比羅大権現、春日大明神、天照皇太神宮、八幡大菩薩、と刻まれていて、文政十三庚寅五月」とある。今年、2010年も庚寅カノエトラである。
文政13年は1830年。丁度、180年前。3つ前の庚寅の年に立てられたのだ。
【奈良町の地図( from 奈良町あしびの郷HP)】
【上ッ道・中ッ道・下ッ道(かみつみち・なかつみち・しもつみち)】
奈良盆地を南北に平行して縦貫する3本の古道。
すでに《日本書紀》の壬申の乱の記事中に,上道・中道・下道の3道の存在が知られる。
※1 盆地中央を走る幹線道路が下ッ道で,条里施行の基準線でもあり,平城京では路幅を拡張して朱雀大路としている。 (from 百科事典マイペディア)
東から上ツ道、中ツ道、下ツ道で、上ッ道は伊勢街道になる。
なお、天理市観光協会HPにこれらの道の詳しい説明がある。
上ッ道 : 近世には奈良、櫟本、丹波市、柳本、桜井を結ぶ地域の主要道となり、「上街道」と呼ばれて、伊勢神宮や寺社への参拝道としても賑わう。
上ッ道には山の辺の道の付け替え機能も含まれていたと思われる。
中ッ道 : 上ッ道の西、2.1q。
下ッ道 :
※1 : 壬申の乱(672年)で大海人皇子軍が上ッ道、中ッ道、下ッ道に軍を配し、上ッ道を進撃する近江朝廷軍(大友皇子軍)と箸墓近くで闘った。
上ツ道を南下して、JR京終キョウハテ駅付近から次の帯解オビドケ駅付近まで走った。
左写真、華厳宗・帯解寺。
右写真、元気な子供が生まれますように。
天理駅近くで沖縄料理の昼食をゆっくりと島時間で味わい、英気を養った。
左写真、市座神社。
右写真、天理丹波市の市場があったところで、昔の木製アーケードが残っていた。
左写真、藤の棚と芭蕉句碑。
右写真、句碑アップ。
『草臥て宿かる比や藤の花』
左写真、大和オオヤマト神社一の鳥居。
右写真、二の鳥居。
左写真、拝殿。
右写真、本殿(宮中三殿式)
左写真、五智堂。
右写真、五智堂の梵字額(南面のアップ)。
左写真、黒塚古墳。
左写真、天理市立黒塚古墳展示館。
左写真、纏向遺跡。
(去年2009年11月の現地説明会は大いに注目された。)
画面左手にJR巻向駅。
三輪山も近い。
画面右手には箸墓古墳。
右写真、画面左は卑弥呼の墓と注目されている箸墓古墳。遠景に葛城山。
二上山も端っこに写っている。
左図、箸墓古墳。
左写真、大神神社(三輪明神)の大鳥居と三輪山。
右写真、大神神社は遥か先だ。
右写真、藤原京跡。
左端の茂りが大極殿跡。
中央の空に凧が2つ揚がっている。
グランドでは野球少年達がなにやら談合中。
右手の小高い丘が天香具山(1542.4m)。
天香具山は、畝傍山(199.2m)、耳成山(139.7m)とは異なり火山でなく、多武峯からいくつかの尾根を経て続きの山となっている。
この広場の端っこで暫し休憩の後、吉田先生の案内で、近鉄大和八木駅に向かった。
道中の八木の町は古いままの商家や宿屋が並んでいて往時の賑わいが偲ばれた。
この辺りの八木街道(下ツ道)は、本町通りと呼ばれ昭和40年代頃までは目抜き通りだった由。
西隣の今井町の歴史的町並みが有名なため、八木は少し、歴史街道としては影が薄いが、昔の姿が今も残っている落ち着いた町だった。
途中、四つ角に「八木町道路元標」があった。
(大正九年四月一日の「奈良縣告示第九十二號」に、 奈良縣知事・木田川奎彦名で「道路法施行令第八條二依リ道路元標ノ位置左ノ通定ム」とあり、
奈良県下の町村に元標が置かれているが、その中に、「八木町大字八木、三百五十六番地先丁字路」もある。)
5人は近鉄・大和八木駅にて解散し、京都方面、大阪方面にそれぞれ帰った。
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