チョットずつ奥の細道 b    江戸そして春日部まで


  中山道自転車旅・塩尻〜日本橋 280km4泊5日を終えて、奥の細道に駆けつけた。

1) 2011年10月9日(日)

日本橋から東方向、今夜の宿 コンフォートホテル東京清澄白河に向かう。


左写真、隅田川は清洲橋が迎えてくれた。
清洲橋は優雅な下垂曲線を描き、女性的なイメージでデザインされたとか。
大分骨太の女性だナァ。


右写真、清洲橋から下流側を写す。
中央は大川端リバーシティ21だろう。
清洲橋のリベットの多さには驚いた。

なお、”清洲”は、橋の両岸である深川区住町と日本橋区中町から命名された。




ホテルにチェックインして、まずコインランドーリーを回して、シャワーを浴びる。
やがて、三人の友の一人”江戸の人”が迎えに来てくれた。

リストランテ アルファーロ (Ristorante ALFARO)でイタリア料理をご馳走になる。
積もる話に時間を忘れてしまった。
閉店時間を過ぎて我々二人きりになっていたが、大らかに暖かく待っていてくれた。
さすが、イタリア人だと思った。感謝!




2) 2011年10月10日(月) 午前:隅田川下見 




 a) まず、出艇ポイントを探して下流へ


右mapの赤線は、隅田川カヌー航の出艇地点を探す目的で、ホテルを出て、清洲橋の左岸袂から隅田川沿いに下流方向に走った走行軌跡である。
佃堀に至って目的を達し、清洲橋の袂まで戻ってきた

走行距離:8.4km、
時間は8:10〜10:20。








左写真、永代橋。
首都高速道路の高架橋付近から写す。



右写真、永代橋。左岸の袂から写す。
昨夕の清洲橋と共通する荘重さを感じる。
ココで右岸に渡る。

永代橋は、昨夕の清洲橋とともに、土木学会の選奨土木遺産になっている。



帝都を飾るツイン・ゲイト
永代橋と清洲橋は帝都を飾るツイン・ゲイトとして、選奨土木遺産として認定されている。
関東大震災後の復興当時、永代橋の下流に橋はなく、永代橋は「帝都の門」として設計された。(清洲橋は河口から2番目の橋。)
永代橋は筋骨隆々とした男性的なイメージで、清洲橋は優雅な下垂曲線を描く女性的なイメージでデザインされた。



左写真、永代橋左岸から下流方向(大川端リバーシティ21)を写す。




右地図、この付近の案内map。













左写真、上のmapの「現在地」から大川端リバーシティ21方面を写す。


右写真、中央大橋。(右岸側)
ケーブルが見える。
画面左端はメッセンジャーの像




左写真、メッセンジャー像。遠景に永代橋。








右地図、”佃”付近案内map。(出艇候補地付近の地図)





左写真、右mapの「現在地」付近で隅田川の掃除中。












【隅田川カヌー航・出艇ポイント候補】 「佃堀」 右上map ======================================================


左写真、住吉水門アップ。
向こうは隅田川。



右写真、住吉橋。
住吉水門が開いていれば、この水路(佃堀)を通ることができる。







左写真、水路の奥。
小さな漁船、佃の漁師の舟が繋がれている。
前方の朱の橋は「佃小橋」



右写真、佃小橋から奥を見る。







左写真、奥に昔の名残か、土に割石が乱雑に置かれているスロープがある。
出艇するにはgoodだ。



右写真、スロープの手前にはススキの仲間?が繁っていて風情がある。








左写真、柵とフェンスがあるが・・・。



右写真、コチラの端っこがよさそうだナァ。








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左写真、住吉神社
鳥居の上の扁額は珍しい陶製で、有栖川宮幟仁タカヒト親王の書。



右写真、水盤舎。
舎は、明治2年に再建、同44年に改築。
石造の水盤には「天保12年白子組」とあり、木綿問屋組合の寄進。






左写真、住吉神社の裏門。
本殿を横から見る。



右写真、隅田川(左)に向かって建つ住吉神社の大鳥居。



隅田川を上流方向に戻る。




左写真、タンカー?が下ってきた。大きな船だ。航行注意。(中央大橋から写す。)



右写真、日本橋川(江戸城・大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河)の隅田川への合流地点に架かる豊海橋トヨミバシ。









左写真、日本橋川には次々に橋が架かっている。(豊海橋から写す。)


隅田川右岸沿いを走って、清洲橋を渡り、振り出しに戻った。
ココから、隅田川の左岸沿いに上って、まずは、芭蕉が舟から揚がった千住を目指す。









右写真、萬年橋。
隅田川に注いでいる小名木川オナガワを萬年橋で北側に渡る。











北斎万年橋下
左写真、萬年橋の下流側は水門を隔てて隅田川だ。

萬年橋は江東区の橋の中でも古くから架けられていて、1680年の江戸図に「元番所のはし」と記されている。


右写真、「葛飾北斎 富嶽三十六景より 深川萬年橋下」。

芭蕉の「寒夜の辞」に芭蕉庵の地理に触れ、「深川”三またの辺”に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ」と述べている。北斎のこの図「深川万年橋下」はまさにその光景を描き出している


 b) 千住まで隅田川左岸を上る (橋の多いこと)

下図「芭蕉と深川界隈」の赤丸ポイントを全て訪れたいのだが、
今回は隅田川沿いに絞って、千住まで先を急ぐ。

右写真、芭蕉稲荷神社。
下町のしもた屋の中にある。
第3次芭蕉庵のあったトコロ。

芭蕉は元禄2年(1689年)8月21日に「おくのほそ道」の旅を終えた後、伊賀上野や膳所、京都など上方を漂泊。
その間、杉風らが第二次芭蕉庵の再入手を試みたが、資金繰りに難渋して実現できず。
芭蕉は、元禄4年(1691年)10月29日にやっと江戸に帰着するも、芭蕉庵は無し。
元禄5年(1692年)5月になって、杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、旧庵の近くに第三次芭蕉庵が新築される。
この庵は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を離れるまでの丸2年間の住まいとなった。


右写真、芭蕉庵史跡展望庭園。
隅田川と小名木川の合流点の岸辺にある。
第1次および第2次の芭蕉庵が建っていたトコロらしい。
元は杉風所有の生簀の番小屋だった。位置は、むかし「三つ股」と呼ばれた小名木川と隅田川の合流点付近の岸辺で、芭蕉は、「寒夜の辞」で庵の地理にふれ、「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ。」と述べている。
まさに、北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」に描かれている光景である。

下流側には清洲橋。
芭蕉像は庭園の中程に「三つ股」と呼ばれた合流点を眺める格好で鎮座している。




左写真、新大橋。
芭蕉像のトコロから写す。



右写真、両国橋。
芭蕉の舟旅の時には、千住までの間に架かっていた橋は、両国橋と千住大橋だけだった。








左図の如く今は、鉄道橋、高速道路橋を除いても、10を越える。

順に橋の写真を撮りながら、隅田川の左岸沿いを千住大橋まで北上した。


























 from 現代の隅田川橋梁群HP



左写真、蔵前橋。



右写真、厩橋。









厩橋地蔵尊。



右写真、駒形橋。









左写真、観光船が上っていく。



右写真、駒形橋から吾妻橋を写す。










左写真、東京スカイツリーが大分近い。
ココは、よく見えるポイントだ。
下町の太陽という感じだ。



右写真、吾妻橋。






右写真、東武伊勢崎線の鉄橋。
電車が写っているよ。






左写真、勝海舟像。





右写真、東京スカイツリーが街の隙間に聳えている。
画面右に、業平橋駅。



左写真、言問橋。














左写真、桜橋。



右写真、桜橋からもスカイツリー。
桜橋は、隅田川で唯一の歩行者専用橋。、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つとのこと。平面形状はX字形。








左写真、白髭橋。




右写真、水神大橋。







左写真、千住汐入大橋(前方)。
隅田川の上流側を写す。
ココで隅田川は直角にかね尺のように曲がっていて、カネガフチの地名が残っている。
千住大橋は画面のずっーと左の方だ。
(右手は旧綾瀬川)

右写真、旧綾瀬川
前方は綾瀬川橋。
この川で隅田川と荒川が繋がっている。(「隅田水門」で水位調節)
画面左は、伊沢造船所。
着艇するのに絶好のスロープがある。
ココ以外では着艇できるところは無さそうである。

【隅田川】 from Wikipedia
現在「隅田川」と呼ばれている川は、元々は入間川の下流部であり、下総国と武蔵国の国境であった。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより、この川が荒川の本流となった。明治末から荒川の洪水対策工事として、岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削された。そして1965年の政令によって、この荒川放水路が荒川の本流となり、分岐の岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称された。
なお、江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川オオカワとも呼ばれていたので、今でも古典落語などでは「大川」が出てくる。
また、大川右岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端オオカワバタと称する。


3) 2011年10月10日(月) 午後:千住から春日部まで


右mapのflagは隅田川に架かる千住大橋である。

午前中(赤線)に、このflagの地点まで辿り着き、中華飯屋でランチ休憩後、春日部まで北上した。


GPSの調子が悪くなったため、右図の走行軌跡(青線)は途中で途切れているが、東武伊勢崎線の春日部駅で上がった。

駅員に教わって、
春日部−(東武伊勢崎線)→北千住−(地下越日比谷線)→秋葉原−(JR山手線)→東京駅
と無事乗り換えて、東京駅から新幹線で帰宅した。




















左写真、千住大橋。(隅田川の北側)
芭蕉が上陸して、歩き始めたポイントである。
「奥の細道 矢立初めの地」の碑が見える。



右写真、千住新橋で荒川を渡る。







左写真、「今様草加宿」という大きな案内柱に気が付いて、左の旧街道に入った。
(49号線から別れて一方通行の道)
ココで、一人歩き旅の同年配の方を見掛けて、暫し話す。

草加小学校の前を通り過ぎる。

右写真、復元した建物で、なにかの接待をして下さってる風だったが、時間がないので、パスした。


一人歩きの同年配の方が持ってられた地図が便利そうだった。HPで探して見つかった。
地図でたどる日光街道HPである。歩き用に便利な詳細な地図である。



左写真、神明宮



49号線に戻って、
右写真、草加せんべい屋さん。
残念ながら、寄っている間がなく先を急ぐ。







左写真、草加松原遊歩道の南端に整備された札場河岸フダバカシ公園の南端入口。
正面には芭蕉像。奥の細道旅立ち300年を記念して建立された。



右写真、太鼓橋と松並木。右手は綾瀬川。
この綾瀬川は実は、荒川放水路が開削される前は、(本日昼前に見た)旧綾瀬川を経由し隅田川に合流していた。






左写真、「草加松原遊歩道」は、「日本の道百選」にも選ばれたらしい。
松並木は1.5km続いている。

49号線は橋を渡って北進するのであるが、気持ちのいい綾瀬川沿いの遊歩道を進んでしまう。



右写真、覆い被さる桜並木も気持ちいい。
どんどん西進する。


気が付いて49号線に戻り、南越谷駅の東で武蔵野線のガードをくぐる。



左写真、香取神社
長い参道を進む。
香取神社は利根川、江戸川沿いに多く分布するが、コレは武蔵国・越谷郷・大沢鎮座の香取神社である。


右写真、本殿の建築も大したモノだった。
彫り物も見事だった。






【香取神社】
香取神社は利根川・江戸川沿いを中心に分布する。
一方、南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布し、その分布圏は境界を侵すことなく分かれているらしい。
香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓された、元は低湿地だった土地である。
総本社の香取神宮は千葉県香取市にある。式内社、下総国一宮で、旧社格は官幣大社。分社の香取神社は関東地方を中心に全国に約400社ある。

ココ(越谷駅の南東800m)でGPSデータは途切れてしまった。
写真を撮る時間もなく、春日部駅へひたすら北進した。



                               陸路の続きは翌春の 春日部から小山 へ

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