交野ヶ原周回 (天野川・交野・津田・穂谷川・淀川)


『野は交野』と清少納言も「交野ヶ原」を称えている(枕草子,1000)。
交野ヶ原」は、枚方市、交野市に渡るなだらかな丘陵で、天野川より北、生駒山系(の北端)の西、石清水八幡宮の小さな山より南に広がる枚方丘陵一帯を指して呼ばれたらしい(旧交野郡の中央部分)。
桓武天皇が延暦2年(783)に行幸して鷹狩りをされて以来、平安貴族たちに遊猟地として愛され、また特に春には桜狩りが楽しまれた由。
その地を私、Q太郎(西野久二郎)は、サイクリングで楽しむことにした。

交野ヶ原では、遠く石器時代の遺跡からナイフ形等の石器が発見されている。
縄文時代の初めから人々が住み始めて、麦を中心に粟や稗、芋や豆の畑作が行われた。
弥生時代初めの集落跡が、天野川、穂谷川流域で見つかっていて、やがて米作りが始まった。
地力にも恵まれ、この一帯は「甘い(おいしい)米がとれる野」、甘野、甘野川と呼ばれ、後に天野川となった由。

この恵まれた地の端っこに寓居を構えたことに感謝しながら、以下のコースを適当に組み合わせて繰り返し走っている。

なお、「B.交野山麓メインコース」から東に進めば、大阪府と奈良県の境界の低い山地に入り、いくつものハイキングコースがある。
このちょっと山自転車もなかなか楽しい。
こちらについては、別ページ「きさいちハイキングMAPの路」をご覧下さい。

 A.天野川・お散歩コース  藤田川合流点〜天野川緑地〜大阪市大植物園   5.0 km 自宅→A→B→C→D→自宅  の交野ヶ原周回コースは 25km、2時間の手頃なホームコース。
 B.交野山麓のメイン・コース  植物園〜天田神社〜源氏の滝〜津田くにみ坂   8.0 km
 C.穂谷川・静かな緑道コース  津田くにみ坂〜JR藤阪駅〜山田池公園〜京阪電車牧野駅       km
 D.淀川を突っ走るコース  京阪電車牧野駅〜河川敷公園(枚方地区)〜枚方大橋   5.7 km
 E.星のブランコ・しんどいコース  植物園を起点に天野川左岸の路をひたすら上っていく。   3.5 km  オプション・コース
 F.月の輪の滝・森林浴コース  植物園から尺治川沿いのハイキング道に入ると、森林だ。   1.5 km  オプション・コース



上表のA〜Fの各コースの記述は、いずれも、【目安になる構造物名】、起点からの延べ距離、次の構造物までの区間距離を表記してから、写真を掲げ、見聞を述べる体裁をとっている。


【交野ヶ原は七夕の地】

交野ヶ原には古くから七夕伝説が伝承されている。
七夕伝説のルーツは中国であるが、この地に中国から直接入ったのか、朝鮮半島経由で入ったのかは定かではない。
上記の百済寺跡からも分かるように、当地には古代より百済系の人々が多く住んでいたので、その人たちが故国の風俗、習慣、思想を伝え、そのことが交野ヶ原に七夕伝説が根付く素地になったと想像される。
桓武天皇は若い頃から、親族の百済王氏ゆかりの交野ヶ原で遊ばれ、百済王(クダラノコニキシ)敬福(キョウフク)の孫娘・明信姫とのラブロマンスも残されている。
道教思想を信奉していた桓武天皇の影響もあり、交野ヶ原には地上での神仙境として多くの星の伝承地が作られ(今でも星や天に関わる地名が多く残っている)、
古くからあった機物神社の祭神が七夕伝説の「織姫」に代えられ、同じく中山観音寺の牛石が「牽牛」となったようだ。
このようにして、交野ヶ原に七夕伝説はごく自然に定着し、特に平安貴族によって数多くの歌が作られ、以降、今日に至るまで歌人、文人の間で、天の川、七夕の歌枕の地として親しまれている。


 狩り暮らし 棚機津女(タナバタツメ)に 宿借らむ 天の河原に 我は来にけり
  (狩りをしていたら日が暮れてしまった。今夜は織姫様に宿を借りよう。天の川のほとりに来たのだから) 
  交野ヶ原に狩りに訪れた在原業平の歌。古今和歌集や伊勢物語に収録され、平安貴族に広く知られた。


         
                                  偕成社 星座早見図鑑 (藤井旭) より


交野ヶ原の七夕伝説については、「天の川七夕星まつりの会」が作られている次のHPによくまとめられているのを知った。
七夕発祥の地「交野ヶ原」(大阪府枚方市・交野市) http://www.yuko.ne.jp/tanabata/
それに、「交野ヶ原と七夕伝説」という本も出されている。私も、今日注文しようと思っています。(03/01/30)


なお、枚方市のHPより「交野ケ原」を以下にコピー転載する。

交野といえば、今日では交野市のことを指しますが、明治29年までは現枚方市域の大部分を含む交野郡という広い領域がありました。
交野郡は大宝2年(702)頃に茨田マッタ郡から分割して設けられたもので、以後、交野といえば現在の枚方市域のことを指している場合が多いのです。
交野郡の中央部を占める台地・低丘陵の部分が交野ヶ原と呼ばれていました。
この地は水田に適せず鳥獣が多く生息し、長岡京・平安京からもほど近いため、桓武天皇を初め平安貴族たちが鷹狩などで頻繁に訪れています。
鷹狩は、飼いならした鷹にカモやウサギなどの鳥獣を捕まえさせるもので、桓武天皇は殊に好んだそうです。交野には禁野キンヤと呼ばれる天皇の狩場が設けられ、庶民が狩りをするのを禁じていました。
今も枚方市内には禁野の地名が残っています。
また、清少納言は『枕草子』で趣のある野として交野を挙げています。風光明媚な交野は、和歌の題材として多くの歌に詠まれました。
惟喬親王の別荘である渚院の桜を見て在原業平が詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(『伊勢物語』・『古今和歌集』)によって、交野と桜が強く結びつけられるようになります。
鎌倉時代になると藤原俊成は「またや見む交野のみ野のさくらがり花の雪散る春のあけぼの」(『新古今和歌集』)と詠み、さらに時代が下がると『太平記』では俊成の歌を踏まえて
「落花の雪に踏み迷う交野の春の桜狩、紅葉の錦を着て帰る嵐の山の秋の暮れ」というように、嵐山の紅葉と並んで交野と桜は切り離せない関係として定着したのです。
http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/gikai/files/annatoko/annatoko%20konnatoko%20sono50.pdf


                                                                   下は、交野山(コウノサン;写真中央)と肥沃な田圃
【参考・引用サイト】

 下記のホームページには随分お世話になりました。
 厚くお礼申し上げます。
 本当によくできていて、尊敬してしまいました。


  
  http://murata35.chicappa.jp/index.html              






現枚方市の江戸、明治の行政区画、村名等を「郷土枚方の歴史」(枚方市史編纂委員会、平成13年改訂)および「郷土枚方の歴史・改訂版」(1976年3月改訂)から抜粋紹介したい。




上図の「享保期の所領配置図」では、明治22年の合併で、枚方町、さだ村になる地域および楠葉、招提、中宮、村野は幕領になっている。
元々の「枚方」は小さい地域だナァ。
我が家が建っている山之上は小田原藩領である。田宮、茄子作もだ。渚、小倉も持っていたのだ。




我が山之上は川越カワゴシ村で、田宮、茄子作、村野も同じだった。







枚方町、さだ村のみが茨田マッタ郡で、その他(面積的に大部分)は交野郡である。