チョットずつ奥の細道 g    小山〜日光




今回の旅の概要を下表に示す。(2〜3日目のHPは下表からリンク)
初日は快晴。後は雨。しかし、日光杉並木を快走できるとは夢にも思っていなかった。実に幸せな旅だった。大権現さんに感謝!

旅順記号 日 程   サブタイトル  宿泊地
g−1 1日目 2013年4月1日(月) 小山〜新鹿沼 新鹿沼・旅館
g−2 2日目 2013年4月2日(火) 新鹿沼〜日光 日光・ホテル
g−3 3日目 2013年4月3日(水) 日光散策

                                               奥の細道のTopへ戻る  


チョットずつ奥の細道 g−1     小山から日光まで その1

      小山〜新鹿沼
                                                         2013年4月01日(月)


【本日の走行ルート】 下mapに本日の走行軌跡を示す。
GPSの走行記録が取れなかったため、ATLASTOUR Planner で作成した計画ルートを下mapに示す。
実績ルートもほぼこの通りである。
(GPSが鹿沼に入ってからフリーズして仕舞い、対処できなくて、電源を切った。フリーズは初めての経験だった。)
     
前回(2012年4月24日)、小山の”扶桑歩道橋”近くまで、走っているので、今回はソコまでタクシーに乗った。
上mapの新幹線小山駅からの黒細線がそれである。
太青線は、室の八島までの走行ルートであり、昼食休憩後、赤太線で新鹿沼の宿まで走った。




   左写真、今回のスタートポイント。小山市の扶桑水処理センター前である。満開の染井吉野が迎えてくれた。

      中写真、扶桑歩道橋のトコロで左折し、羽川西小学校前の歩道橋から進行方向である北側を写す。右手に思川の支流・姿川が見える。

         右写真、農道に入り、姿川に平行に北上した。




   左写真、摩利支天塚古墳。県内最大級の前方後円墳だとのこと。桜が清楚に咲き誇っていた。

      中写真、後円部の墳頂には、摩利支天社が祀られている。
         【摩利支天】は、梵天の子として古代インドの民間で信仰され,後に仏教に取り入れられた。
            密教では護身・隠身などのための修法である摩利支天法の本尊となり,二臂像,三目六臂像,三面八臂像などがあるが遺例は少ない。
            三面八臂で猪の背の三日月の上に立つ形像がよく知られている。

         右写真、飯塚一里塚。




   左写真、中写真、 ”下野市天平の丘公園”で「天平の花まつり」が盛大に行われ、下野の方々が爛漫の春を楽しんでおられた。

         右写真、見事なウスズミサクラ。




   左写真、下野国分尼寺跡。

      中写真、復元された国分寺の南門跡

         右写真、思川を越えて、右岸堤防の道を走る。前方に堰が見える。




   左写真、思川に支流・黒川が注ぐ辺りで、下の道へ降りる。

      中写真、

         右写真、小さなお堂と見事な桜。前方の森がが大神オオミワ神社・「室の八島」である。







   左写真、大神神社の表参道。

      中写真、正面が拝殿。

         右写真、芭蕉句碑。『糸遊に 結びつきたる けふりかな』




   左写真、前方は、「室の八島」庭園。画面左端が芭蕉句碑。

      中写真、「室の八島」。

         右写真、「室の八島」の水はきれいだった。


【「室の八島」についてのお勉強】

室の八島保存会”HPを要約すると、
” 「室の八島」が下野・国府コウ付近のどこにあったかは、よく分からない。
平安時代の史料には、「野中に清水のある」との記述があり、”巴波川ウズマガワ低地”の特徴によく一致する。
多分、“思川の伏流水”が湧出する湿地帯・沼沢地の中にあった景勝地ではないか。
現在の巴波川は、「室の八島」が川に姿を変えて、今に残ったものではないか。
平安時代の終わりには、「室の八島」の中心がその周縁部である下野・国府の集落の方に移動して、下野・国府の集落一帯が「室の八島」と呼ばれるようになった。
([平治物語]によれば)平治の乱1159で、藤原成憲(成範)や源師仲モロナカが「室の八島」に流されるが、この「室の八島」は下野・国府の集落のことである。)
近世になって、下野国府のすぐ近くの下野惣社(現、大神神社)の前に、本来の「室の八島」を想像して、八つの小島のある大きな池が作られた。
いつしか、その池が「室の八島」であると誤解されるようになった。
その池は何時しか、何故か、(神道組織が関与してか、)「室の八島」は池ではない、その池のある神社のことであるということになってしまい、芭蕉が案内された「室の八島」は、室の八島大明神(下野惣社のこと)という神社だった。
それは、芭蕉がそれまで憧れていた「室の八島」のイメージと全く異質のものだったので、芭蕉は疑いをもち、“奥の細道”では「室の八島」の印象を一言も述べていない。 ”

以上の仮説は非常に面白い。
確かに、『「室の八島」が・・・“思川の伏流水”が湧出する湿地帯・沼沢地・・・現在の巴波川ウズマガワ・・・』については、
巴波川の水源が思川の伏流水であり、今も巴波川の川底からの湧水は豊富なので、納得できる。
(序でながら、”栃木”は巴波川の水を中心に発展してきた町らしい。)

ただ、”下野惣社の前に、「室の八島」を想像して、八つの小島のある大きな池が作られた”については、その動機はよくは分からない。
しかし、なにせ、日本一の歌枕なのだから、作ろうと思う人間が出てきても不思議でもないのかもし知れないが。

なお、栃木県教育委員会のとちぎ ふるさと学習には
”『おくのほそ道』で、「同行曽良が曰く、”此神は木の花咲耶姫の神と申して・・・”」とある八嶋大明神の縁起説話は、中世の”浅間の本地”の物語に近似する説話で、
元禄期の室八嶋大明神では、”浅間の本地”に基づいた縁起が語られていたことが『下野風土記』に記されているとのこと。
曽良は、この縁起語りを芭蕉に説明したようだ。
また、『下野風土記』には、”元禄期、室八嶋大明神の右の池に八つの小島があり、「八嶋」と呼ばれ、・・・”の記述がある。”

どうも、”昔からの歌枕の「室の八島」”とココ”八嶋大明神の「八つの小島」”とは違うようだ。

都道府県別・名所歌枕一覧HP栃木県”室の八島”によると、
”「室の八島」は、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中・大炊寮オオイツカサの竃カマドのことを言ったらしい。
「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。・・・釜をば、やしまといふなり」(色葉和難集)。
つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語で「室の八島」と言い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。
そして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである。”
やはり、この説が妥当なのだろう。

芭蕉の時代は多分、十分な情報がなかったのだろう。彼は古くからの歌枕「室の八島」の地を楽しみ、わざわざ回り道をして、やって来たのだと思う。
しかし、実際の景は芭蕉の期待を大いに裏切り、落胆した芭蕉は、折角訪れた「室の八島」について、直接的には何も記せなかったのだ。
なお、芭蕉が室八嶋大明神(現、大神神社)を訪ねたのは1689年で、この神社は1682年に再建されているそうな。

歌枕室の八島の歴史の旅 は、なかなかよくできているナァ。)





   左写真、大神オオミワ神社の拝殿。

      中写真、流石に立派である。

         右写真、東参道から出て、北東方向に向かった。途中、簡素な馬頭観音が祀られていた。
             今回の旅で見た唯一の馬頭観音であった。




  「室の八島」で大分ゆっくりしたので、壬生を経由し、日光西街道の車道を急ぐ。

   左写真、「曽良日記」にでている金売り吉次の墓。
      金売り吉次は源義経に仕えた金売り(砂金などの売買を商売とした者)で、義経が奥州平泉に逃れる時に伴をしてこの稲葉の地まで逃れて来たが、
      コノ地で、病に倒れたのこと。

      中写真、稲葉の一里塚。

         右写真、大谷石の蔵。私は初めて見たので、断って、写真を撮らせていただいた。
            家人の話によると、この辺りには結構あるとのこと。




   左写真、杉並木残っている景に初めて出会って、写す。

      中写真、見事な杉街道ではないか。

   (新鹿沼の宿・竹澤旅館に到着するも、チェックインは17:00からとの札が掛かり、閉められていた。)

         右写真、光太寺の石段。




   左写真、奥の細道320年記念の建てられた、大小二つの石碑・「芭蕉の笠塚」。

      鐘つかぬ 里は何をか 春の暮
      入相の 鐘も聞えず 春の暮

      中写真、この塚は本堂脇に建っている。

【笠塚】
 芭蕉が江戸から被ってきた笠を新しい笠に替えて、日光に向かったと伝わるお寺。
 「芭蕉居士 嵐風居士」の文字が刻んである大きな碑は後代のもので、その碑の後ろにある自然石の碑が当初の笠塚らしい。
 奥の細道旅の3泊目は、曽良の日記で、「鹿沼」に泊ったことは明らかであるが、鹿沼のどこに泊まったか不明。
   ・ 鐘つかぬ 里は何をか 春の暮
   ・ 入相の 鐘も聞えず 春の暮
 この二つの句は、どこで作ったのか分かっていないが、光太寺は当時無住だったことを考え合わせ、ココで作ったのではないか、とされている。

         右写真、今宮神社・本殿。(光太寺ほど近く、鹿沼市役所の南側)




   左写真、拝殿。
      今宮神社は、8世紀に日光二荒山神社の分社として、日光山鹿沼今宮権現が建てられたことに始まるとのこと。
      日光東照宮の小型版の如き派手な色彩と彫刻は、慶長13年(1608)の建て替えらしい。

      中写真、探して探して夕暮れ前に、ようやく芭蕉句碑を見付けた。
         ”君や蝶我や荘子が夢心”
         芭蕉が門弟・怒誰に送った句らしいが、何故、ココに建つのかは分からないとのこと。


           『荘子』にある胡蝶の夢から採った句らしい。
          荘子の著者・荘周は夢で胡蝶になって自分と蝶の区別ができなくなったという故事がある。
          私は夢の中であなたと混同しています。私とあなたは一体なのですという意を弟子の怒誰ドスイに告げているとのこと。
          芭蕉の教養が溢れているが、難しい句である。   from 芭蕉DB
          なお、怒誰は、近江蕉門の重鎮の一人で、本名は高橋喜兵衛。

         右写真、立派すぎる今宮神社の神楽殿。空は暮れかかっていた。
            本日の芭蕉旅はココでEND。

===========================================

  付録

(1) 伏流水
 上記の【「室の八島」についてのお勉強】の冒頭に、
「室の八島」については、平安時代の史料には、「野中に清水のある」との記述があり、”巴波川ウズマガワ低地”の特徴によく一致する。
多分、“思川の伏流水”が湧出する湿地帯・沼沢地の中にあった景勝地ではないか。とある。
余計なことだが、少し脱線すると、
伏流水が豊富なトコロは確かに景色まで美しくなる。
琵琶湖周辺部で言えば、
・近江舞子の浜辺 : 近江舞子の浜をカヌーを漕ぎ出すたびに、水のきれいなのに感心する。
  これは、比良山系からの伏流水が流れ込んでいるからだ。(近江舞子は最高峰・武奈ヶ岳の真下にある。)
・針江の生水ショウズ : 針江は、高島市新旭町にある地区で、比良から流れ出す安曇川水系の伏流水が豊富に湧き出ている。
  (針江川をカヌーで遡ったことがあるが、梅花藻が繁っていて、非常にきれいな川だった。)
  その湧水を活かした生活環境である”川端文化”が、弥生時代から続いており、それが美しい風景を創り出している。
・守山市のホタル :  守山市は、昭和初期までは「夜道も提灯が要らない」と言われたほど、ホタルが飛び回っていたらしいく、今でも初夏には街中で蛍を見ることができる。
  野洲川の下流部であるにも拘わらず、水がきれいな理由は、守山で、野洲川の伏流水が豊富に湧出しているからだ。


(2)西行が訪ねた歌枕

 【西行が訪ねた陸奥の歌枕の地】
西行は、出家して数年後の康治2年(1143年、27歳)頃に、都の草庵を離れて陸奥へと旅だった。
この時代、陸奥は美しく詠まれた歌枕によってのみ知ることができる、遙かなる憧れの地だったのだろう。
西行が(奈良時代に蝦夷の南下を防ぐために陸奥と下野の境に設けられた)白河の関へ到着したのは、能因法師の歌にあるのと同じく、秋深い頃だったようだ。
西行は、白河の関を越えて北上し、「信夫の里」、「武隈の松」(その近くに、実方サネカタ中将の墓あり)、「名取川」、「平泉」、「衣川」を訪ね、翌春まで陸奥で過ごした。
「束稲タバシネ山」の桜を眺めた後、3月に奥羽山脈を越えて、「出羽国の瀧の山(蔵王連峰の瀧山)」へと足を延ばして、桜を愛でている。
よく分かっていないが、この年のうちに都への帰路につき、その途中、下野国を通った。その時に、
「みやこ近き小野大原を思い出づる紫の煙のあはれなるかな」
「風荒き柴の庵は常よりも寝覚めぞものは悲しかりける」
の2首を大神神社で詠んだと言われている。
(参考文献) 安西光二 編集「西行歌枕」、図書印刷(株)、2008年。
 芭蕉の心を捉えた人々

 【西行が詠まなかった歌枕】
「塩竃の浦」は当時歌枕としてもっとも名高かったらしいが、西行は一首も詠んでいない。
なお、この歌枕は、左大臣源融ミナモトノトオルが鴨川六条の河原に”塩竃の浦”に見立てた庭を造ったことで有名になったとのこと。
現地に行った人はまず居ないはずなので、遠隔地の歌枕が生まれるのには、それなりの理由があるのだろうナァ。
(どうでもいいのだが、塩竃は多賀城に塩を供給する地からの命名のようだ。)
また、「松島」や「象潟」についての歌も、現在、西行作と伝えられているものは偽作の可能性が高いらしい。
(参考文献) 安西光二 編集「西行歌枕」、図書印刷(株)、2008年。

 【歌枕】
「万葉集」の頃には既に、吉野や竜田川、富士山など一部の地名が歌語として意識されていたようだ。平安時代に入ると、和歌の隆盛とともに、勅撰集などに採られた秀歌に詠み込まれた地名は、多くの歌人たちによって繰り返し読み継がれ、いつの間にかその土地や風景には、固有のイメージが定着していった。歌枕の成立である。
日本各地に広がった歌枕を集めて、「能因歌枕」として知られる一書に編集したのが、平安中期の歌僧・能因だった。彼は歌枕を机上で整理するだけでなく、自らその地を訪ねて旅をしている。
能因に憧れ、その「すき(数寄)」の精神を継承したのが平安末期に登場した西行である。
歌合の興隆とともに題詠が中心となった平安後期の歌壇にあって、都の歌人の多くは、見たこともない歌枕を、先行歌のイメージを踏襲しながら詠むのが一般的だった。そんな中にあって、能因を慕う西行は、古人の心を実感すべく、自ら歌枕の地を漂白したのである。
そして、この西行を心の先達と仰いだのが近世の大俳人・芭蕉だ。当時は既に初老ともいうべき45歳の年に決行された「奥の細道」の旅は、西行500年忌に当たる元禄2年(1689)のことであった。歌枕巡礼とも言うべきこの旅で、芭蕉は「古人の跡」(歌枕)を訪ねつつ、「古人の求めた所」(「すき」の精神)を求める境地を開いたという。
(参考文献) 安西光二編「西行歌枕」(図書印刷(株)、2008年)の中の志立正知”草庵の詩人・西行”


                     2日目 新鹿沼〜日光 


                             奥の細道のTopへ   


                      ”黒いバイク の ペダリング”Topへ