『谷奥』 を中心に 獅子窟寺の谷と山を歩く シリーズ




上図(獅子窟寺)と右図(獅子窟寺坂路・下の坂口村より本堂まで八丁の坂路なり)は『河内名所図会・巻之六』(「日本名所風俗図会」全18巻・別巻2の11.近畿の巻T、角川書店)より転載。


山岳仏教である真言宗高野山派の獅子窟寺は今でも不便な山の中にある。平安時代からココの修行僧は獅子窟寺の南に広がる谷を道場として修行したとのことだ。それで、この谷を流れる川は道場→ドウジョウ→「土生(ドジョウ)川」と呼ばれるようになったらしい。また、修行僧は谷を下り山を越えて「月の輪の滝」まで駆けていき、滝水に打たれて行を積んでいた。


そんな話を聞いて是非とも獅子窟寺から月の輪の滝まで修行僧のように駆けてみたいと思った。
2004年の正月に自転車で「獅子窟寺の谷と山」に入って、沢登りの手前などで駐輪し、地図を頼りにルートを確認した。そして、それらのルートを繋ぎ合わせて、いくつかの周回コースを設定して楽しんでいる。

対象のエリアは、土生川の集水域を中心に、その南に隣接する尺治川の右岸域も含む低山であるが、結構険しい。下の地図の獅子窟寺『参道入り口』あたりで標高80mくらい。『土生川start』地点である「私市山手2丁目からの林道入り口」も、『尺治川start』地点である「月の輪の滝下流100mあたり」も、同じく80mくらいだ。そして「獅子窟寺本堂」が200m、一番高い『こだちの路 曲折点』で290m。


なお下の地図は、京阪電車が作っている「きさいちハイキングMAP」の一部分をコピーして、着色、追記させていただいたモノ。あらためて感謝したい。






上の地図および下の目次に略称で表している計11のルートを、それぞれのページに分けて紹介します。目次のルート略称をクリックして下さい。



                       
獅子窟寺の谷と山を歩く シリーズ 目次

ルート略称  ルート概要     ルート の 説 明
  プロローグ 獅子窟@〜「獅子窟寺」〜A  2002年の自転車による初詣ハシゴで、獅子窟寺へも行った。獅子窟寺が一番気に入った。
月の輪@ N谷上り 月の輪(の滝100m下流点)第@ルート。北(向き)谷上り。(延長)200m弱。
月の輪A E谷上りfrom@ 月の輪第Aルートコース。東谷上り、最後北向きロープ上り(@から続く)。400m弱。
月の輪B nw-w-s尾根下りfromAtoA* 月の輪第Bルート。北西→西→南尾根下り(Aから続く)。500m弱。200mに展望三角点あり。
月の輪C e-n尾根上りfromAtoこだち路 月の輪第Cルート。東→北尾根上り(Aから続き「こだちの路」曲折点へ)。500m。
200mで南に「そうげんの路」分岐。300mのベンチで北西に鉄塔道分岐。
土生川@ e-se-e谷上りtoこだち路 土生川第@ルート。東→南東→東と進む谷上り(「こだちの路」曲折点へ)。1200m強。
土生川A S谷上りfrom@*to月の輪A 土生川第Aルート。南向き谷上り(@途中800m地点から、月の輪Aへ)。200m強。
土生川B e-n斜面上りfrom@* 土生川第Bルート。東→北と回る斜面上り(@途中500m地点から、獅子窟寺へ)。100m強。
土生川C e-n尾根上りfrom@* 土生川第Cルート。東→北と回る尾根上り(@途中600m地点から、獅子窟寺Aへ)。300m。
土生川D NE谷上りfrom@* 土生川第Dルート。北東向き谷上り(@途中900m地点から、獅子窟寺Aへ)。150m。
10 獅子窟@ 尾根上り 獅子窟寺参道ルート。南東に尾根上り。獅子窟展望台を通り、獅子窟寺まで。800m。
11 獅子窟A 尾根上りfrom@toこだち路 獅子窟寺・観音道ルート。尾根上り(@から続き、「こだちの路」曲折点へ)。800m。
12 配水池@ nwn下りfrom王の墓to配水池 (高区)配水池@ルート。王の墓から高区配水池への下り。400m。
13 配水池A e-se-s谷上りto土生川C (高区)配水池Aルート。東→南東→南と谷筋上り。土生川Cと出会う。800m。
14 配水池B e-s谷上りfromA*to土生川D (高区)配水池Bルート。Aの途中から東→南谷上がり。土生川Dと出会う。350m

 ・ ルート略称の着色は地図に塗った各ルートのマーカーの色。
 ・ ルートの起点・終点は、谷筋は沢登り方向に、尾根筋も上り方向に進路を取っている。ただし、月の輪B、配水池@は、下り専用に歩くので逆方向。


獅子窟寺のことは の「交野の名所・旧跡案内」に詳しい。


より以下の部分を抜粋引用、加工させていただきました。

 谷奥
 (たにおく)

私市の山地の部分に付けられている
地名はたくさんあるが、大きな地名は三つしかない。「谷奥」、「尺治」、「岩船」である。
谷奥、尺治、岩船の後ろに、その場所の固有の地名がくっつけられている。
「谷奥」は獅子窟寺を中心にした山地に付けられている
「尺治」は京阪電鉄私市駅の南の尺治川の流域に集中しており、「岩船」は磐船神社から天野川沿いに細長く付けられている。

獅子窟寺の創立は平安時代の弘仁年間から藤原初期の頃までの間であると言われている。山の中に建てられているということは、奈良時代の役小角(えんのおずぬ)、行基(ぎようき)、平安時代の弘法大師の名前も言われているが、山地建立や薬師如来仏があるなど、山岳仏教が盛んになった平安時代の初期と考えてよいのではないか。
河内森あたりが獅子窟寺の入口であり、現在の寺院の奥、319.3 mの最高点が分水嶺となることから、ここまでが寺域とされる。この寺域一帯の地名は、頭に「谷奥」が付いて、後ろにそれぞれの場所を示す地名が付いた複合語になっている。
そして、獅子窟寺の寺院があるトコロは、「谷奥」だけの地名となっていて、中心地であることがうかがえる。

 谷奥 上覚


「上覚」は、僧侶(そうりょ)の名前
と思われるが、ほかに考えられるのは「城郭(山城)」とも受け取れる。
僧侶であるならば、獅子窟寺の更に奥で修行するために庵(いおり)を結んだ所と考えられる。
「城郭」とすると、山岳仏教盛んなりしころから鎌倉、室町時代にかけて、山伏がここ獅子窟寺にも数多くいたであろう。山の尾根や高い所に砦(とりで)を造って見張り台としていたであろう。獅子窟寺が海抜200 m、上覚は高い所が250〜280mあり、ちょうど稜線部に当たっている。それゆえ格好の砦の場所であることは明らかである。

 谷奥 狸谷


 谷奥 狐谷

谷奥上覚から獅子窟寺を隔てて南側
の尺治川の谷との間に一つ、わりあい大きな谷がある。
この谷の上の部分が「谷奥狸谷」、下の部分が「谷奥狐谷」となっている。
「狸谷」は谷の一番奥に当たるため、谷は深く険しい。それに対し「狐谷」は下になるので、谷も広く斜面もゆるやかである。
獅子窟寺の繁栄が終わった後は、この谷を上り下りする僧侶や村人もなくなり、誰も入らぬ谷となってしまった。
そして何時しか、村人たちは、狸や狐の出る谷と言うようになったものと思われる。

 谷奥 長原


谷奥狐谷と谷奥狸谷との間にあり、
東南から西北へ伸びる比較的緩やかな斜面である。
獅子窟寺から南側の谷を望んで、東が一番奥となって「狸谷」、西が広くなって「狐谷」、真ん中の広い斜面が「長原」であり、寺から見た景観から付けられた地名であろう。


獅子窟寺Aから土生川Cへのコースは、
三十三観音道になっている。チョット観音さまのお勉強をしました。


【三十三観音道】

獅子窟寺は真言宗の古刹である。密教では多面多臂の形で表された「変化観音」が一般的らしく、ココの三十三観音道の観音さまも多面多臂であった。


【観音信仰と三十三所巡礼

来世的観音信仰は,まず菅原道真,源兼明など藤原氏に疎外された 10 世紀の没落貴族を中心に形成され,やがて六観音信仰に発展した。 「六観音」とは天台宗の《摩訶止観》に説くところで,六道の煩悩を破砕するという大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の 6 体の観音のことである。この教えに従い,また中国の六観音信仰発達にも刺激されて, 6 体の観音像によって輪廻無常の六道の苦を逃れ浄土に往生しようと願う信仰が 10 世紀中ごろから貴族社会で流行しはじめる。 11 世紀になると,《摩訶止観》の六観音は密教の観音の変化であるとする説が,真言宗の僧仁海らによって説かれ,以後,六観音といえば密教の観音 6 体をさすのが普通になった。
なお、「東密の六観音」は聖・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪であり,台密では准胝の代りに不空羂索を数える。

いずれにしても、6観音は現当二世ゲントニウセ(現世と当来世)の利益を兼ね備え絶大な存在として社会各層に広く信奉され,霊験ある観音像を本尊とする寺院への参詣も盛んになった。すでに 10 世紀末,石山・清水・鞍馬・長谷・壺坂・粉河などの観音寺院が広くその名を知られたが, 11 〜 12 世紀になると,仏教の世俗化に反発して教団を離脱した念仏聖の別所などを中心に,新しい観音霊場も各地に多数形成された。これら霊場には,念仏聖の講会に結縁し本尊観音の現当二世の利益にあずかろうとする信者が集い,さらに各霊場を結ぶ修験的な聖の巡礼も始まって,いわゆる「三十三所巡礼」へと発展するのである。

西国三十三所巡礼の創始で史料的にもっとも確実なのは,1161 年 (応保 1),園城寺の僧覚忠が熊野那智から御室戸まで観音霊場三十三所を巡礼したという《寺門高僧記》の記載である。当初の三十三所巡礼は修験的色彩が強く,札所の順序も現在と異なるが,15 世紀ごろから一般信者も参加する巡礼の大衆化が進み,那智青岸渡寺に始まり美濃谷汲山華厳寺に終わる札所の順序や巡礼歌をはじめ,現在の巡礼の諸形態がほぼ形成された。
一方,鎌倉幕府の成立にともない,13 世紀には西国巡礼にならった坂東三十三所巡礼が発達したが,さらに 15 世紀には秩父三十三所が成立した。16 世紀には,秩父札所が三十四所に改めることで西国・坂東との一体性を強調した結果,西国・坂東・秩父のいわゆる百所巡礼も始まった。

巡礼の大衆化は江戸時代に絶頂に達し,全国各地に形成された三十三所は 100 余におよぶという。
こうした各地の三十三所巡礼は,あるいは近世町人のレクリエーション,あるいは地域成員の通過儀礼など,さまざまの意味あいを兼ねながら観音信仰の民衆的底辺を拡大し,その伝統は今日に続いているのである。

なお、観音が持つさまざまな威力のそれぞれを個別に神格化したために「十一面観音」,「千手観音」などの観音像が表現されたが,こうした変化観音とは異なり変化しない本然の観音を「聖観音」と呼んで区別している。