中山道 - 4−4 塩尻〜日本橋 4日目
安中〜熊谷
1日目 | 2011年10月5日(水) | 塩尻〜下諏訪 | 下mapの赤線 |
2日目 | 2011年10月6日(木) | 下諏訪〜岩村田 | 下mapの青線 |
3日目 | 2011年10月7日(金) | 岩村田〜安中 | 下mapの茶線 |
4日目 | 2011年10月8日(土) | 安中〜熊谷 | 下mapの紺線 |
5日目 | 2011年10月9日(日) | 熊谷〜日本橋 | 下mapの赤線 |
4日目 : 安中〜熊谷
本日の走行軌跡は、上のmapの紺色の線である。”安中”をスタートし、”高崎”、”深谷”を経て、熊谷まで、ほぼ東南東方向に走った。その速度高度グラフを右に示す。
この日の走行距離は、67.8km
(7:50〜16:20=8時間30分)
であった。
本日の高度記録を見ると、
まず、安中から途中、達磨寺へ寄って高崎までは平均勾配:約1%で、快適に下った。(標高差約110m)
その後は、関東平野をゆるやかに走って、熊谷に至っている。
左写真、磯部温泉・湯元長寿館前で。
7:50
右写真、安中原市アンナカハライチの杉並木。
左写真、武家長屋。
安中城内にあった四軒長屋を、藩の右筆だった小野直が残した図面をもとに復元。
右写真、日本キリスト教団安中教会。
鐘楼の壁は大谷石だ。
なお礼拝堂は、新島襄召天30周年記念に建てられたとのこと。
左写真、画面左端は、「雲外先生碑」。
湯浅吉郎(号は雲外)は群馬県会議長、第一期衆議院議員を勤め、安中教会堂の建設にも従った。 from 群馬県立女子大学HP
この日、幼稚園は運動会で賑やかだった。
右写真、板鼻宿本陣付属の書院。
1861年、皇女和宮が江戸へ降嫁の途中、この書院に一泊した。
左写真、少林山達磨寺・総門。
本山である黄檗山万福寺の総門と同じ様式で造られた。
右写真、石段の上で鐘楼の下をくぐると、左右に大講堂と瑞雲閣。
石段の途中で左折し、洗心亭へ。
左写真、画面右手が洗心亭。
ドイツの世界的建築学者ブルーノ・タウトが昭和初期にココに住み、日本文化を研究し内外に広めた。
画面左は、「私は日本文化を愛する」とタウトが独語で書いた記念碑。
右写真、霊符堂(本堂に当たる)。
左写真、達磨堂。
右写真、碓氷川。(上流側)
高崎城へ入る。
左写真、三ノ丸東門。左は本丸乾櫓。
右写真、本丸乾櫓をアングルを変えて。
すぐ向こうのガラス張りの建築がよく合う。
左写真、お城が高崎の街に溶け込んでいる。
右写真、きれいな街だ。
左写真、ちょっと忘れ物休憩。
右写真、佐野の船橋歌碑。(左側)
後は上越新幹線。(高崎駅は画面右手方向)
左写真、常世神社。ツネヨジンジャ
鉢の木の主人公・佐野源左衛門常世が住んでいたトコロで、常世を祀っている。
右写真、赤い閻魔堂と黒ずんだ常夜燈、そして道標の前で、休憩。 12:10
左写真、「従是 右江戸道 左日光道」で、ココから日光例幣使街道が始まる。
右写真、「日本スリーデーマーチ発祥の地」碑。(碑の後は烏川の支流)
この先で烏川に注ぐ支流のココ新町河原からの展望図が掲げてあった。町の誇りだろう。
左写真、新町の諏訪神社。
右写真、(復元された)新町宿常夜灯。
左手、旧中山道から来た。
左写真、
右写真、田村本陣の門。(移築)
本庄宿に本陣が2軒あり、その内の1軒。
左写真、本陣門の奥に旧・本庄警察署があり、今は歴史民族資料館になっている。
明治16年(1883)建築のモダンな建物。
右写真、旧・本庄警察署のバルコニーに怪しげな人影が見える。
左写真、深谷ネギ。
このネギの旨さは格別だ。
右写真、呑龍院の赤い鐘楼。
(この左手方向、道を渡ったところに常夜灯)
左写真、深谷宿(西の)常夜灯。
右写真、清酒「菊泉」の醸造元・瀧澤酒造。
煉瓦造りの煙突が見えていた。
左写真、深谷駅。
煉瓦調の外壁パネルの橋上駅舎。
明治の実業家・渋沢栄一は、当時の東京改造計画に使用する大量のレンガ生産のための機械式煉瓦工場を深谷に設けた。その煉瓦で東京駅、帝国ホテルが建築されたのだ。そして、平成8年(1996)東京駅に似た深谷駅がレンガの町に造られたとのこと。
右写真、深谷の駅前公園に「青淵・渋沢栄一像」が建っていた。
この後、JR線路沿いの中山道を深谷の次の駅・熊谷まで下った。
本日の宿は、熊谷駅南西方向の便利な熊谷ロイヤルホテルすずき。
大正11年、花見茶屋として開業したという。親切な宿だった。
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