Q太郎のフジタカヌー物語
                          小さなカヌーの限りない楽しさ


 1991年4月に初めてカヌーに乗った。48才だった。
 それ以来、フジタカヌー研究所のファルトボートだけを漕いで、12年目になる。
 このまま行けば、我が人生で20年以上、フジタ・ファルトを漕ぐことになりそうだ。
 漕いできた艇、これから漕ぎ続ける艇、5代のQ太郎を振り返り、記録にとめておきたい。



フジタカヌーとの出会い

1991年の立春のころだった。勤めていた会社が4月から週休2日になる。
それまでの企業戦士に少しは遊び心を持ってもいいよとのメッセージであった。
はたと困って、息子に相談した。彼はアウトドア雑誌に小さく載っていた「フジタカヌー」の広告を示し、こういうのもあるでと言ってくれた。
へー、こんなのがあるのかと知って、資料を請求した。

京都市内から郵便が届き、うまくはないがぼくとつな字で短いが親切なメッセージが記されていた。感じるものがあった。
すぐに電話で注文した。(藤田清氏との出会いで私のカヌーは始まった。)
製造できたとの連絡が、京都府笠置町に竣工したばかりの新工場(右写真)から入った。
3月下旬の土曜日半休の午後、会社の帰りに取りに行った。
初めて実物を見た。とても持って帰れる代物ではなかった。初代Q太郎との対面だった。

           http://www.fujitacanoe.com/ フジタカヌー研究所


1号艇 KG-1 1991/spring〜1994/summer
長さ:3.81m、幅:72cm、重さ:17kg、収納サイズ:120x36x25cm、カラー:デッキ・青、ボトム・白。1991年製造。


1991年4月に2回ほど、Q太郎を担いで笠置のカヌースクールに行った。
5月に、瀞峡のツアーに参加した。ここで、「小さなカヌーの限りない楽しさ」を実感した。
7月下旬に、恒例の日本海山陰ツアーに勇んで参加したが、台風のために初日に2時間ばかり漕いだだけで中止となった。
帰りの山陰本線の車窓から時々見える日本海は晴れて輝いていた。
どうやら台風の進路はズレたようだ。このフラストレーションからだろう、夏休み、盆休みにソロで琵琶湖を何回か漕いだ。台風の風雨の中を漕いだこともあった。


       
             瀞峡にて                           KG-1、SG-1のフレームワーク

日本カヌー普及協会(事務局:フジタカヌー研究所)の会報「ミニ・パドル」誌で、半年前に発足したクラブ・ザ・ファルト主催のセルフ・レスキュー練習会がタイミングよく9月に近江舞子であると知り、早速申し込んだ。
当日、クラブ代表者の吉田究(キワム)教授に初めて会った。
吉田リーダーの指導で、パドル・フロートやロールの練習が行われた。
私は全然できなかったが、クラブ・ザ・ファルト最古参の奥田氏や濱本氏はこの日の初練習でロールもほぼできていた。

このクラブ・ザ・ファルトに、1992年4月の近江八幡お花見ツアーから入れてもらった。
初めてのソロ・テントを張り終わると雨が降ってきた。ザ・ファルトらしい歓迎のされ方だと後から知った。

「屈斜路湖そして・・・Q太郎一人旅の原風景93」は、KG-1での最も思い出に残っているツアーである。



2号艇 SG-1 1994/summer〜
長さ:3.82m、幅:70cm、重さ:17.5kg、収納サイズ:120x36x25cm、カラー:デッキ・赤+グレイ、ボトム・黒。1994年製造。

クラブ・ザ・ファルトでは、川も漕ぐが、琵琶湖、海も多い。
4月のお花見ツアーでは、奥琵琶湖の海津大崎の桜の下にテントを張って、翌日、竹生島経由で長浜上がりが毎年のようにあった。
竹生島から長浜方向は南南東方向であるが、この時期、陸すなわち、西からの強風によく悩まされた。
吉田リーダーは、そのような時にはちゃんとラダーを付けておられる。
スキル、腕力ともに無いクラブ・ザ・ファルトの劣等生はラダーの力が必要と思い立ち、ラダーが付けられるSG-1が欲しくなった。
(フジタ・GooseシリーズのKG-1は川用、SG-1は海用。私が初めて電話で注文した時には、川を漕ぐことはあってもまさか海など漕ぐことになろうとは夢にも思わなかったのだ。
川用のKG-1にはラダーは付けられないので、SG-1が欲しくなったのだ。
私の94年バージョンのSG-1は、デッキがツートンカラーで、多分この時だけの製品で、しかも最後のSG-1になったようだ。
この時に、ボトムが黒、デッキが赤の Canoe をきれいと思った。
「Q太郎 赤いカヌーの一人旅」 のはじまり、はじまり!になったようだ。





白良浜には緩やかな自然石積の防波堤があって、そこに三脚を据えて出艇写真が取りやすい。
右は1995年10月の出艇時の写真であり、実物よりよく写っている。
Captain は52歳で、まだ若かったのだ。



このSG-1で、琵琶湖を漕ぎ、白浜など南紀の海を漕いだ。
伊豆の海を少し漕いだのもSG-1だった。





            白浜の白良浜で(95/10)


3号艇 PE-430 for sea & lake, 1996/summer〜2002/spring
長さ:4.3m、幅:68cm、重さ:16kg、収納サイズ:100x37x32cm、カラー:デッキ・赤、ボトム・黒。1996年製造。


3年前の釧路川ツアーの帰りに、一人で車窓から見たオホーツクの海を是非とも漕ぎたくて、1996年の夏休みに知床から網走湖までの一人旅を計画していた。
丁度この計画に合わせたように、グッドタイミングで、フジタカヌーからパイプフレームの軽量新艇が発売された。
(PEシリーズの設計は、フジタカヌー研究所の若社長・藤田亮(タスク)氏) 収納サイズの高さが1mで、宅配便でも送りやすく、非常に便利である。

PE-430の進水式は知床・ウトロで行った。


 
        オホーツクの浜辺で(1996/8)                         私のPE-430フレームワーク



  このPE-430で、経ヶ岬を何回か回った。明石海峡を渡り、潮岬も回った。
  そうそう、屋久島の海も漕いだのだった。




4号艇 PE-480 for sea, 2002/spring〜
長さ:4.8m、幅:63cm、重さ:17kg、収納サイズ:100x37x35cm、カラー:デッキ・赤、ボトム・黒。2002年2月製造。


リタイア後はゆっくりとロングツアーを楽しみたい。南の海には、八重山諸島、宮古島、慶良間諸島、奄美、いいトコロがいっぱいあるな。夏の暑い時には北海道の海も漕いでみたいな。
宅配便が使えて、ちょっと長いめで、しかも軽い海ファルトを探した。


        
             4号艇と5号艇のツーショット(撮影地は寓居の北に隣接する枚方市の公園)



【オプション】
この艇の発注に当たっては今までの経験から、以下の6点の追加・変更オプションをお願いした。

(1)パドル・フロート用にパドルを固定するためのホルダーをデッキのスターン側に取り付ける。
荒海でのパドル・フロートは難しい。万が一の場合に少しでも確実性を上げるために、パドル・ホルダーが欲しかった。
藤田亮氏と打合せ・相談の結果、氏が前から考えていた案に乗ってお任せした。
その案とは、コックピットのすぐ後にある船体布のつなぎの(布が4重になっている)部分にプラチックのホルダー(車の屋根の荷台に使われる部品)を(当て板を下から当てて)ボルトで止める方法である。
パドルを外した(3)の写真の方が分かりやすい。


(2)シートの前にある木製フロアボードに、電動ビルジポンプが丁度挿入できる穴をくり抜く。
私は電池式水中ポンプ(完全防水の電動ビルジポンプ)がセキュリティ面で有効であると考え、1997年に近くのショップで方々に当たってもらい、
下の写真の製品(attwood の WaterBuster。直径約12cm、高さ約14cm。
重量は、水中での浮き上がり防止用の錘である金属円板0.33kgを外すと、電池込みで、1kg強。排水能力13L/分。単一電池3個で連続5時間運転OK。
同じ製品が今はシリウスさんで購入可)を見つけた。以来、海一人旅の必需装備になっていて、3号艇のフロアボードには自分で穴を開けた。
なお、電動ビルジはフロアボードの穴にはめ込んで、念のため、幅5cmのベルトをキールのポールの下から回して艇に固定している。
その後、2002年3月下旬にシリウスさんに電動ビルジポンプを注文した。
実は、上蓋を本体に引っかけて止めるためのピンが根元から折れたので、ピンの代わりに細引きで本体下端の爪部分と結んでいたのだが、
電池交換のたびに細引きを結び直すのが面倒になってきたのだ。電動ビルジポンプも代替わりした。
(写真に写っている小さな緑色は、電源スイッチがファルトの収納バッグの中で入ってしまわないためのカバーで、細引で留めている。)
    


(3)スプレースカートの前面に水の入らない折り畳み式の(煙突のような)筒をつける。
上記電動ビルジポンプのスイッチのオンオフは、スプレースカートを外さずにこの筒から手を入れて行う。また、排水チューブもこの筒から艇外に出す。
万が一荒天時に沈した場合、パドルフロート等で再乗艇後すぐにスプレースカートを装着し、それから電動ビルジで排水するためには必須である。
煙突だから、艇内が蒸れてきた時には多少の換気にも役立つかな。なお筒の口は防水袋の要領で3回ほど折り曲げてパチンと止める。

    


(4)スプレースカートをコーミングに素早く装着できるよう、ゴムのすぐ手前で縫い込みをもう1本入れる。
これで、装着のしやすさが随分違ってくるのだ。3号艇のは自分で縫い込んである。


(5)マップケースやメッシュ・バッグの固定用に、デッキラインの止めループを追加し、Dリングを取り付ける。
これは、2号艇からお願いをしており、便利に使ってきた。現在のデッキの状況は下の写真の如くである。
               


(6)収納バッグを2本のベルトで運搬用キャリーに取り付け・固定ができるように、縫い止め部分を加減する。
私は、クラブ・ザ・ファルトの精神に則り、車は使わず、公共交通機関で旅をしている。
昔は収納バッグを担いでいたが、腰を痛めてからは宅配便を多用するとともに、極力担がずに、キャリーに載せて引っ張っている。
具体的には、消耗品的に使える(プラスチックとアルミの)安価・軽量キャリーに収納バッグ載せて、バッグに縫い付けた2本のベルトをキャリーの2本の縦ポールに回して止める。
また、担いだ時にキャリーが下にずり落ちないように上方向に引っ張る。
今回は、標準収納バッグのベルトの縫い止め部分をポールを通すために短くしてもらった。
また、ウエストベルトは宅急便の時および防水袋への収納時には無い方がイイので、外してもらった。






「SEA KAYAKER magazine」誌 2002年2月号のKAYAK REVIEWSの概要紹介】 ==================

標記の「SEA KAYAKER」は、世界のシーカヤッカーの間で認められている月刊誌らしいが、英語でもあり、Q太郎は見たこともなかった。
2002年2月号にフジタのPE-500の批評・評価記事が出ているというので、1冊だけ購入した。(多分、PE-480もよく似た性能だろう。)
3人のReviewerが実際に漕いで評価をしている。字引を引きながら折角、読んだので概要を以下に紹介する。

ReviewersのMr.A、B、C は、北米の人だからでっかい。身長:178〜208cm、体重:75〜91kg。3人とも穏やかな海を漕いでいる。
きつくても、風:15m/sec 、波高:1.2mだ。

Mr.Aいわく、「PE-500の初期安定性および二次安定性は素晴らしい。荒波を打ち割って進むのではなく、500はフォールディング・カヤック特有のしなやかさによって、
波の上に乗っかる傾向があり、波はハルの下を過ぎていく。」
Mr.Bは、「舵がよく利き操船が容易である」と言い、また、Mr.Cも、優秀な回転性能が気に入っていた。
Mr.Aも指摘したが、Mr.Cも、バウは多少左右に揺れる。が、漕いでいる間にセンターに戻ってくると言っている。
Mr.Aは(微風だったが、)少し風上方向に向きやすいが、リーニングと若干のパドル修正で無理なく直線コースを漕げると言い、
(強めの風だった)Mr.Bは、「風上方向に向く傾向は問題にならず、15m/secの風でも容易にコースを保つことができた。この艇は実に素晴らしい」と述べている。
Mr.Bは、速い巡航速度が効率的に出るのに驚いており、速度の計測にGPSを使ったMr.Aも、「リラックスしたペースで8km/時を越えていて、この速さには驚かされた」と口を揃えている。
27kg の荷物を積んで漕いだMr.Aは、「非常に安定していて、よく進み、回転が容易で、リーンやスイープ・ストロークにもよく反応する」と言い、
「PE-500は十分な荷物が積めて、超軽量で、組立の容易な折り畳み式ボートであり、航空便で運んで簡単に外国へ遊びに行くことができる」と絶賛している。

なかなか高い評価を得ているようだ。

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5号艇 AL-1 for river & lake, 2002/spring〜
長さ:4.0m、幅:60cm、重さ:12kg、収納サイズ:100x37x28cm、カラー:デッキ・赤、ボトム・黒。2002年2月製造


60歳代のファルトを考えると、できるだけ軽いのが欲しかったので、アルミフレームの軽量モデルを調達した。
琵琶湖や川ではアルミ艇で大丈夫だ。これならキャンプ道具を含んでも自力で運べる。
この艇は組み立て・折り畳みが非常に容易である。プーリーシステムによって、汗をかかずに確実に組み上がるのが気に入っている。
船体布最後部に付いているロープをリアフレームの6:1の滑車を使っ引っ張ることによって、船体布にテンションが掛かり、
リアジッパーが閉められ状態にまで船体布が簡単に引っ張り上げられるのだ。

【オプション】
上述の4号艇の「オプション」のうち、(3)〜(6)は、この5号艇でもお願いした。




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   日本にファルトを伝え、広められた高木公三郎先生のこと
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高木公三郎先生に、大学教養部の時に運動生理学を習った。ご専門は宇宙物理で戦前には、南京天文台長もされたらしい。
先生がファルトを日本に伝え、広めようとされた方だと知ったのは、その20数年後であった。
高木先生が1936年のベルリン・オリンピックにボートの役員として参加された折りに、クレッパー艇で水に遊ぶ老若男女の姿に感銘を受け、
この水上での楽しみを日本に紹介され、戦後は一般への普及に努められたという話を後日、クラブ・ザ・ファルトの吉田リーダーから聞いた。

高木先生のお宅に何度も伺って、先生を囲んで深夜までスポーツ論、人生論に談論風発の学生時代を過ごされた吉田リーダーによると、
高木先生は戦後、新制大学に設けられた「体育」教官として招聘され、生理学にのっとったスポーツを奨励された。
「あの戦争を起こしたのも、日本人は本当の『遊び』を知らんかったからや。心から共に楽しめる『遊び』を知っとったら、外交交渉ももっとうまくいっとったやろ。
そしたら戦争までは行かんかったかも知れん。」といつもおっしゃっておられたとのこと。

日本カヌー普及協会の会員名簿に会長として先生の名前があった。どこかで聞いた名前だったが、思い出せなかった。
笠置のフジタカヌーの工場を、2、3回目に訪ねた時に、社長の奥様としゃべっていて、教えてもらったのだ。多分そうだと思い、
実家の屋根裏部屋にまだ置いてあった学生時代の本の中から、高木先生著の教科書を見つけて確認した。懐かしかった。ご縁があったのだろう。


高木公三郎著 「携帯ボートの楽しみ方」 (1962年,東西社)より抜粋

「筆者のファルトボートは、終戦直後に初めて、軽くて安くて丈夫なものをと考えて、まず、こしらえてみたのです。
方々に持ち歩き、あちこちの川を下ってから、次々、新しく作るごとに少しずつよいものにしてきました。そして今ではかなり自信のあるものになってきました。」

右写真は、高木先生考案の国産ファルト1号艇のフレーム。
下の左は、1号艇の概略図面で、高木先生の直筆。
下右は、その後改良された艇の図面。これも直筆。(この後を、藤田清氏が引き継がれ、現在のフジタカヌーに至っているそうな。)



       




左の貴重な写真は、高木先生の(1号艇の設計図通りに見える)ファルトを使っての旅のスナップ。
左が高木先生で、正面中腰は若き日の藤田清氏。


なお、クラブ・ザ・ファルトの創設者で代表者の吉田究(キワム)教授は、実は私の1年後輩(エヘン!?)で、
学生時代1回生の時から高木先生のご指導で、上記の1号艇の図面を見ながら、左の写真のようなファルトを自作され、
既に漕いでおられたそうな。吉田教授のファルト歴は40年近いのだ。これもびっくり。


このページの多くの写真をフジタカヌーのパンフレット等から転載した。
快諾して下さった藤田亮氏にお礼を申し述べます。
また、貴重な情報を教えていただいた吉田究氏に改めて謝意を表します。




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